cafe dé nanntoka

1に酒、2に音楽、3にアニメ、3、4がなくてあと余談

ヒッドイのは匿名だからじゃない ~新潟上越高田のボート転覆事故の話題を見て~

 堀でボート転覆、少年1人死亡 新潟・上越の高田城:朝日新聞デジタル

 

 このニュース、事故の状況の目撃者が話すところによるとこの少年たちがふざけてボートを揺らしていたという話があったという。そこで、手癖でツイートを検索してみると自業自得とかこいつが悪いんじゃん!って声が多いこと多いこと。

自分の考えは人が死んだとして、人が死んだらみんな平等に尊ぶ存在になるんじゃないかなって思うわけよ。よほど特殊な事情でもない限り。

遺族に同情とかそういうわけではなく、死んだらみんな仏になるんですよ的考え。

あ、でも責任問題とかの話になったら誰が悪いか決めなきゃだよね。世の中を回していく仕組みとして。ただし、それを決めるのはこう騒いでる人たちではないわけで。

で、こういった話で名無しでもないのによくまあ文字通りの死体蹴りのようなことをみんな名無しでもないのにポンポン書くなと思ったけど、自分を多少は自業自得じゃんということを思わなくもなかったが、ツイートするぞ!ってエネルギーまでには昇華しなかった。

思えばこういった発言は昔の2ちゃんとかの中であふれてる役割だったなと思ったが。みな個人ホームページにミクシィなどで発信はできてもこういうことは言ってはいなかった。

まさに死体蹴りのような書き込みは2ちゃん(のアレな板)での役割だったような気がする。この2ちゃん、またーりなところもあるけどヒドイところはヒドイ。

 

ここで思った。世間では2ちゃんは名前がない状態で匿名発言をするからヒドイ言葉であふれているというが、それは実は違うんじゃないかなと。

ツイッターでも実名でとんでもない差別発言をするケースはあるし、匿名性はあっても個を識別できるツイートで2ちゃん並みの発言をするケースは目立つ。

2ちゃんの攻撃性を誘発するところは、その手軽さだったのではないかと今思えばあったのではないかと。名前はもう入っている、名無しと。加えてタイトルを考えなくてもよい。脊髄とより直結したもののようになっている。おまけにスラング的なものが出そろってて自分の言葉で考える必要ないし。

こういうの見てると、昔はよかったというのは本当にないんだなと思う。まとめブログとかみたいなアクセスを気にしまくってるブログもこういう表現はあえて拾ってるような気もするし、やっぱりみんなこういう発言を見たいのかなとか思うと中々気分わるなってしまうので、こういう話題検索は非常に精神衛生上よくないな…。

世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…

 って死ぬほど言われまくってるセリフを思い起こしてブログで独り言いってます。

 

なぜ保育士5万月給アップが支持されないっぽいのか

東京新聞:保育士月給を5万円アップ 5野党が法案提出:政治(TOKYO Web)

この法案、そこらで話してるのを聞いてると結構支持を得られているかというとそうでもないような感じがする。保育所と待機児童の問題は急務ともいえる状況は社会的に十分認識されている。保育所の不測の要因のひとつである保育士不足という点の対策にはこの5万円の月給アップは思い切ったことに見えるかもしれないが、実はこれしかないんじゃないかなという気もする。

しかしながら、自分の周りの話を聞くと中々支持を受けている政策案とも言い難い。ネットでもそういった声は見られる。かつての民主党政権のときの大風呂敷を思い起こさせるような法案に見えたというところが大きいのだろう。近頃は人事院勧告やらなんやらで、結構給与が上がっている役所の話を聞くのでべつに埋蔵金を探すまでもなくそこらのお金をまわせば難しくもないんじゃないかと思うけど。

 

できる、できないで支持するのはさておき、この法案は社会になくてはならない保育士の待遇が悪いといういわば人柱的な状態にあるのをなんとかしようというものだが前述のとおりの反応である。

これは保育士は必要だという認識はしっかり社会で共有できているくらいなのにだ。

 

今政策などを打ち出すとどれも特にセンセーショナルに支持を集めるのは見なくなった。こういったものは小泉総理の時くらいだろうか。

この小泉改革既得権益に切り込んでいくようなスタイルが働けど畑を耕せどといったといった人々に支持を集めた。その結果がその人たちにどのようなものだったかはさておき。

 

その時から非常に強く感じたが、困っている人に寄り添うような政策を打ち出すのもなかなか支持を得られにくく、何を敵にするかという議論が非常に目立つような世の中であるなと言われるまでもなくだけど思いますたとさ。

 

バブルがはじけてからは日本は閉塞感が支配している。こんなときは何をやってもダメな空気がよりこの敵を作り切り込んでいくスタイルを魅力的に引き立てていくものだ。たしかに戦うってのも魅力的に見えるけど、みんなで妥協してこーぜーてな生き方もいいと思うんだけどねと。

 

パンク、オルタナティブとしてのオタク ~少女誘拐監禁犯のオタク趣味報道を見て~

 

ちなみに誘拐監禁行為がパンクだとかいうのじゃないです。犯罪です。

 女子中学生監禁男「女子高生アニメに熱中」記事にアニメファン反発

埼玉県朝霞市の女子中学生を約2年の間監禁した疑いで身柄を確保された寺内樺風(かぶ)容疑者(23)について、一部報道がアニメ好きであったことが誘拐・監禁に結びついたよう印象づけたとして、アニメファンたちがネット上で一斉に反発している。


 批判を浴びているのは日刊スポーツの「女子高生アニメに熱中…寺内容疑者の素顔を同級生語る」との記事。寺内容疑者の高校時代の様子を当 時の同級生に取材したもので、同容疑者がアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」のファンで、かばんにグッズをつけていたアニメオタクであったと伝えている。この記事 はテレビのワイドショーでも取り上げられた。

と、まあこういったのも今更感あるし反応するのも陳腐な気がしなくもない。しかしながら、一連のみんなの反応を見てるとそういえばロックが不良とかそういうのが言われなくなって久しいんじゃないかと思った。

世間のすべてに理解されないが自身の信念を貫いてるようなのってもはやオタクしかないんじゃないかと。

様々なグッズやイベントにじゃぶじゃぶと金をつぎ込んでるのは、逆に反資本主義的なパンクを感じなくもない。

 

マルコム・マクラーレンの息子、8億円相当のパンク・コレクションを燃やす理由を語る | NME Japan

そこで思い出すこの記事。パンクが体制側のお墨付きをいただいた昨今、このセックスピストルズのマネージャーを務めたりHIPHOPなどに影響を与えたマルコムマクラーレンの息子がこの膨大な金額になるとされるコレクションを燃やす理由の一つとして、これをありがたがる人々は金額にしか興味がないんだろうと。

と、ここまで見るとコレクター的な気質を持つオタクはこのパンクの精神に反しているように見えるが、今日本は多少景気が上向いた(と、されてる)状況ながら皆が平等に貧しくなりつつある。一部の人々を除いて。

そんな中、消費は美徳ともされなくなる中オタク的消費は中々理解されがたいであろう。さらには拝金主義にもオタク的消費は金の価値を重んじているような消費には見えない異質っぽさがあるのでは。

以前、最近のオタクはクリエイテブではなく消費ばかりしかしなくてつまらないという声を見た。オタクが変質してお金をいっぱい使ったらスゴイみたいな世界もようで、みんなが眉をしかめるような金の使い方が前述の記事にある現金燃やすKLFみたいに思ったりした。

 

諸君、私はガンダムが好きだ ~鉄血のオルフェンズ1期終~

ザクも好きだ。というかどちらかというとザクの方が好きだ。

と、いう話題はおいといて機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズが終了。2クール構成の割にあんまり話進んでない?と思ったら分割とのことで、秋の2期に期待。

 

この物語をガンダム的にどう位置づけるかについて。

宇宙世紀という正当なガンダムのストーリーは、その年表に規定の事実がありそれを検証するかのように物語が進んでいく。ガンダムという作品がアニメ史において特に重要な点は、続編が同一の世界のその後の具体的な年月の流れの後に続くというモデルをつくったことにあると考える。

この歴史の検証的な物語の作りはスピンオフや様々な商品展開にこそ有利に働いたが、ガンダム宇宙世紀の歴史の中の一つであるという人間のちっぽけさが続編に続編を重ねていくうちにのしかかってくる。

機動戦士ガンダムUCにおいては、その大きな流れにおいてちっぽけながらも抗うことにひとつの答えを出したといえる。

 

宇宙世紀以外でのガンダムではどうか

宇宙世紀以外のガンダムはこういった宇宙世紀の歴史の束縛を逃れ、登場人物たちに感情移入するようなものもあった。SEEDなんかも、登場人物の揺れ動く恋愛的なのもオマケ的にぶっこもまれてたね。

 

結局黒歴史化する

実のところ、ほとんどのガンダム作品は行き着くところはターンAガンダム黒歴史である。すべてのガンダムの文明が滅び、その後にターンAガンダムの世界となる。

こういった考証や公式の設定が付け加えられるたびに、ガンダムという物語は感情移入というよりその行く末を見届けるような感覚で見てしまう。

 

ガンダムにおける人間らしさ

08小隊やポケットの中の戦争などといったOVAは人間が人間らしさを失いがちなガンダム戦場においても、それぞれの登場人物を人間らしく描いていた。

しかしながら、シャアとアムロの関係のようなものや色々頭のねじがぶっとんだような登場人物など戦場においては人間らしさを失ってしまうようなのがガンダムの世界の常である。

自分はこの機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズは鉄華団の少年たちが狂った世界で人間性を保ち続けて生き残る物語になると最初は考えていた。ところが、最終局面に至ってその予想はかなり外れた。

ビスケット戦死後の手段を択ばない三日月の戦闘スタイルや団員が命を顧みない行動を多発するようになるなど、なかなか狂っている。というか、狂っていかないとこの世界は生き残れないんだろうという感じ。

今作の鉄血のオルフェンズは脱冨野という色を強く打ち出した作品と感じたが、やはりガンダムという名を関するだけあって自分はガンダムらしさを感じた。ガンダムらしさとはモビルスーツのデザインではない。狂った宇宙世紀を戦い抜く狂った登場人物たちの行く末を見届けたいという気持ちにさせるということだろう。共感や元気をもらうといったことではないんだガンダムは。

そんな物語

 

中国人食べ残し報道 グローバル化の摩擦かインターナショナルの衝突か

タイのビュッフェで中国人の観光客が大量にエビ料理をとり、それを大量に残していった姿がそこの従業員なのか他の客なのかはわからないが撮影され、大きな話題に。

タイといえばどっかのバカな会社が王家ゆかりの保養地で全裸になって大暴れしてたけど、みなさんタイにご迷惑おかけしてんなと。

この報道で日本人みんなこういうわけではないって、わかるように中国人もこの行為を恥ずべき行為としてあの共産党の機関紙の人民日報で報道していた。

中国人は料理を残すのを「もう食べきれないありがとう」といった意味を込めて礼儀として行うという話がよく伝わってきてたが、このたびのケースは中国国内のエビ価格の高騰により、皆が我先にとエビを皿にもりつけていった結果であろうという考えを示しているように、礼儀といったものはその後のちらかった写真を見ればさすがに感じない。

こういった文化などがあるということから、決して民度が低いとかそういう意味ではないが食べ物を残すことにあまり抵抗はないのかもしれない。

今現在はグローバル化が進んでおり、中国の人民日報も世界に恥じぬふるまいをと書くとおり国の境界がなくなっている。その摩擦で諸問題を起こすことがあるだろうが、それをひとつずつ解決するのがグローバル化への道。

グローバル化は境界があいまいになることに対し、インターナショナルということはインターのつなぐという意味と、ナショナルは民族、文化である。これらは違いを認めたうえでつないでいこうというものがインターナショナルである。インターナショナルを持ち込むのことは例えば、イスラム教の方の礼拝の時間に合わせて生活や労働の都合をつけるといったことは、異文化と暮らすうえでの調整をインターナショナルで行った場合といえる。

対して近年はグローバル化が推し進められ、こうあるべきだという主張が当然のように行われているのを見る。もちろん、食べ残しに関してはなるべくしないほうがいいんだけど、インターナショナルは相互理解といった面が強いが、グローバル化は均一にこうあるべきだというものが主になる。

近年の国際情勢の荒れ方を見るとグローバル化の急速な推し進めが行き着いた先なのかもしれないとか思ったり。

 

ガイアの夜明けの炎上ツイにあえて(部分的に)同意してみる。 あとおそ松さん24話

ガイアの夜明けのこのツイート、なんかホットですね。夜が明けるかと思うくらいの燃え上がり。

声としては

「よい給与も、安定した生活も欲しいけどクソな条件しかねーから仕方なく甘んじてんだよー」

と、いったものが多い。実際のところ、自分の記憶にある労働白書的なものやどこかのキャリアなんちゃら系のサイトの調査では特にやりがい(特に社会の役に立ちたい)といったものが目立った数値の変化を示したということはない。

この調査というものも、ある一定の部分を切り出して全体をみるようなところはあるので無理もない。

 

で、あくまで自分的に感覚として世の中を切り取ってみてこのガイアの夜明けの炎上ツイートに(部分的に)同意してみる。

良い給与、安定した生活、どちらも選べる職業は確かに減っている。これらがあふれてる中であえて選べるやりがいなら本物だろう。良い給与と安定した生活、これらが選べなくなったら我慢してどちらも手に入らない仕事をするかというと、みんながみんなそうではない。近年は働き手が仕事を選ぶ傾向にあるようで募集があるのに人がこないといった現象が起きている。

ではこういった良い給与も安定した生活も手に入らない労働市場を離れ若者は何を選ぶか。ここで、自分がガイアの夜明けに部分的に同意した”やりがい”である。部分的にと付け加えたのは、良い給与も安定した生活も選ばないのではなく選べないからと、このやりがいというものは決して社会のためだけではないからだ。

自分のいうやりがいというものは、音楽でも映像でも実況でもいい。表現行為をすることが様々な分野でツールの進歩や評価するプラットホームが整いこういったものに没頭する若者が本当に増えたと感じている。

自分も昔就活が本当にうまくいかなかったころに「今してるバンドも悪くないし音楽で食ってくか…」みたいなことをせっぱつまって考えてた。本当にバンドで食ってく人にはなんか失礼で申し訳ないけど、追い詰められてよい給与も安定も手に入らないと、どっちも厳しいと知りつつリスキーなやりがいに手を出してしまうんだよなーと。

ここで、またガイアの夜明けの炎上ツイと趣旨が違うところといえば、みんなやりがいってものを企業から与えていただけることを絶望視してるというところもある。

 

ここで、今週放送のおそ松さんの24話を思い出す。トト子ちゃんが色々あって、やりがいを地下アイドルに見出せなくなって婚活はじめだすという中々スピーディーな話だった。トト子はやりがいを見出せなくなって婚活といういわゆる普通の人生に軌道修正しようとしていた(石油王というぶっとんだキャラ出てきたけど構造的に)。

対して、松野家6兄弟は何松だかが就職したのに続き次々と兄弟たちが自立していくという話。就職した松はあまり高い給与や安定を手にしたようには見えず、さらにはやりがいを見出しそうにもない。就職はある種の諦めで社会の一部になる軌道修正として視聴者に映った。

話をトト子に戻すが、トト子はCDなども売れてなかったみたいだし続ける支えになってたのはやりがいであったがそれが見いだせなくなり普通の社会の一員になるほうを話では(一時的に)選んだ。その後留学してすぐ帰ってくるというオチはついたが。

 

仕事をするうえで社会のため…などとはいうけど、社会のためになる仕事だからカネがもらえるんだろというツッコミは今まで数えきれないほどされてきた。

良い給与と安定した生活。これらが労働市場ではあるていど見通すことはできるが、やりがいは難しい。昨今は表現活動やライフスタイルの多様化でむしろ労働以外のところで見つけやすくなってきているのではないかと考える。

仕事にやりがいを見出すのは素晴らしいことではあるが、しているうちに見つけるべきではあると思うし、それを目的にするとよい給与も安定した生活も犠牲になる可能性がある

近年、失業者は多いが中々求人に応募してこないという話は多い。このやりがいというものは自ら見出すものは労働市場の外側にあることが多い。それを労働市場に引き込むためには、そのやりがいをあきらめるのを待つということがあるといえる。だが手っ取り早いのはそれをある程度妥協させるための良い給与と安定した生活を用意する必要があるのではないか

 

にしても、まさかおそ松さんがブラックなジョークを持ちつつもところどころ世相を反映した社会派な見方をできるアニメになるとはまったく予想してなかった。

 

歌ってみた文化論

NHK FMが祝日に主に行っている今日は一日三昧、本日は今日は一日歌ってみた三昧だった。歌ってみたとはニコニコ動画で既存の曲を”歌い手”と言われる人々が投稿したものにつけられるタイトルやタグなどであり、踊ってみたなどに並びニコニコ動画を飛び出して注目を集めているようで、このたびも三昧で登場した。

この中で、ラジオの人が歌ってみた文化という言葉を何度も使っているのを印象深い。たしかにこの歌ってみたやニコニコ動画のノリというものもある程度の規模でみんなが共有していれば文化といえる。誇大表現とはいえないのかも。

 

既存の楽曲を歌うということが歌ってみたなのである。この既存の楽曲というところが肝。オリジナル曲を投稿することではない。

今までも既存の曲を歌うということはあった

例として

 

・他人歌唱系

本人歌唱とホームセンターやパーキングエリアで売ってるCDに書いてあるのをよく見ると思う。本人が歌ってるにきまってるんじゃないかと思ってツッコミたくなるのはわかるが、これは昔は原盤使用料のかかるそのまんまの楽曲を編集したCDよりも、著作権料を払って他の人が歌い、演奏しなおした方が早いということ。最近では音ゲーに使われるポップスがこういった関係から他人が歌ってると思われるものがある(各パートのパラデータの関係かもしれないけど。)。

 

・アレンジ系

既存曲をリミックス、サンプリング、アレンジなど。これはジャズ、ボサノバ、ダンスミュージックなど。既存曲を土台に物自体を作り変える。また、既存の演奏を使いながらも違う歌にするものなんてものもある。これはここで語りつくせないほどの文化性がある。ブートレグといった海賊盤なども含め。

 

・スタンダード系

これは非常に歌ってみたに近い。ジャズ、ロック、歌謡曲でも定番の名曲を収録する場合が多い。こちらはある種の試金石のようにもなっている。ある程度知名度のある曲を入れておけば手に取ってもらえるような狙いもあるかもしれないが、その歌手の歌唱力や個性を共通の名曲を歌うことによってアピールする狙いがあるともいえる。また、その曲を収録するということに拘るといったことも含め、文化性があるといっていい。

のど自慢やコンクルール文化もこの系統といえる。

 

・カバー系

これは昨今のカラオケマシーンの採点機能の強化によってバラエティー番組で人気を博するなど、歌唱力ブームによって乱発されてるカバーアルバムのそれ。スタンダード系のコンクールとは似通っているが、よりシビアに歌唱力を重視している。既存曲の本人が歌っている方は、歌っている人の個性や諸々などを込みで聞くものとして、カバーはより歌唱力のある歌手がみんなの知っている曲を歌うということに価値を見出しているような売り方が見られる。非常に文化性を排しているようにも見られるが、昨今の歌ってみたも多少の流れを汲んでいるようにも見えた。

 

・そして歌ってみた

自分はニコニコ動画youtubeに寄生してた頃のちょっとあとに登録したので、歌ってみたや初音ミクの登場をリアルタイムで見ていたが、ここまでになるとはと。実際あまりよくは見聞きしてはいなかったが、歌ってみたはこのスタンダード系やカバー系に加えて新たな流れを汲んだ文化になっていると思う。

ニコニコ動画ではやっている曲、みんながチャレンジする曲としてのスタンダードや、歌のうまさを競うカバー系の流れ。

この中でも歌がうまいだけでなく、その”歌い手”の個性も人気になる重要な要素のひとつであるといえる。そもそも歌い手なので歌手という肩書ではない。ニコニコ動画では○○手といったある種の役割や属性を名乗る。こういった肩書により、ニコニコ動画内のコミュニティに入り込みソーシャルな世界で自身の表現を行うことができる。

その中で人気になるということは色々なやり方があるといえるが、ユーチューバーなんかが近い存在でもあるような気がする。顔出しとか色々あるんだけど。

歌手が売れるためには今までのレコード会社は初登場何位だの何千人のオーディションを勝ち抜いただの、さらに古くはのど自慢荒らしからスカウトなど色々あった。その中に売り出して大衆に迎え入れられるためのストーリーを見出させるためもあるといえる。

これが歌ってみたにおいてはストーリーとして機能するのが歌い手としてニコニコ動画内で人気を博していることだ。ネットの住民、とくにシビアにランキングを気にするニコ動の住民はステマに厳しい。これ以上にない口コミの正当な評価に映るかもしれない。信者とかそういう呼ばわりは昔からネットではあったけど。

 

これらを踏まえ歌ってみた文化について

こういった文化の中ではやはり歌い手も、単に歌手以上に個性を期待されているような存在に映るようで「○○さんの歌った○○」といったような感じでワクワクされているようなケースが目立つ。ヒット曲がなかなか出づらくなり、楽曲の表現方法が複雑化していく中、ニコニコ文化の既存の曲を歌ってそれぞれの個性を楽しむというものはスタンダード系やカバー系を合わせたものに加えてネットの人気者の表現が合わさったものだと。

様々な表現を行うプラットフォームとなりうるサイトは様々ではあるが、日本においてはニコニコ動画youtubeが特に強力ではある。しかしながら、youtubeは広大すぎて何かニコニコ動画のようなソーシャルなものを感じずに文化性も見出しにくい。アップロードスペースのようなものにしか感じにくい。

対してニコニコ動画SNS機能などを実装し、表現を通じ他人とつながりたいナウなヤング(死)の願望をかなえるものであり、人と人の交流においては文化が生まれるのは当然な流れなのだろう。

しかしながら、こういった同じ曲を歌い○○さんが歌ったものといったもので違いを見出し、その歌い手などの違いを楽しむといったことはかつてのインターネットのカオス感のようなものをあまり感じず、こういったものが割と初期から登録してるオジサン世代の自分としては中々なじめないようなところがあるのかもしれない。

ちょっとカオス感って言葉でごまかすのダメですね。