発達障害や人格障害を持つ人は弱者なのか
発達障害や人格障害をいっしょくたに語るのはちょっと乱暴だけど、その言葉の使い方について記す感じなので問題ないかなと思うと前置き。
発達障害や人格障害を持つ人は弱者なのかということはまず、簡単に言ってしまえば保護すべき弱者ではない。なぜなら精神障害の場合とは違い責任能力があるからだ。
とはいうものの、最近の自分のまわりやネット上での会話を垣間見るに、それらの障害という言葉を使っている光景に違和感を持つことが多いのでちょっと書いてみる。
とても多く見られるのは
・ダメなやつの烙印に
自己愛性パーソナリティ障害に多いが、身勝手にふるまう者に対して、こういうやつがみんなの周りにもいるんだという共通の敵を見つけて共感するということ。そして、その対象に対する敵意を改めて持つ。などということをしている。
もしくは、ADHDだなあいつは。だからダメなんだ。ということ。
・できないことの言い訳に
発達障害とかそういうことだから自分には無理なんだと諦めの言い訳に自分でするようなことをぼやいている人なんかがそんなところだろうか。もちろん、そういったことを他人へのいいわけに持ち出すと、甘えんじゃないよと辛辣な言葉が返ってくることが多い。
では、これらの発達障害や人格障害は劣等人種を見つけ出すため、もしくは自覚させ、社会から排除すべき指標を示したということなのか。それは違う。あくまで人間と関係を築いたりなにかをするうえで多少の不都合が出てくる場合もあるが、能力はなんら変わりないことが多い。
ではなぜそういった言葉が精神医学などで出てきたか。これらの精神障害とまではいかないながらも、社会生活をしていくうえで問題がでてくる人たちは精神疾患などになるリスクが高いという点があげられている。こういったことを自身もしくはその属する集団で把握していればそういったリスクが減らせるということだ。
障害ということば用いることは、対処すべき問題であると認識し、前向きに向き合うことが求められるのだ。排除すべきであるということでも、言い訳にして行動をやめることでもない。ただ、無理はできない。
筋力の有無であるといったことで作業を分担することはあるが、それのようにその人たちごとの個性としてふるまい方をその集団で考えることが求められるのだ。ただ、あまりにも適正から外れる場合はその任から外れてもらう場合もあろう。しかしながら、そういった障害という言葉使う以上はギリギリまで向き合うことが求められるのではないか。
今の日本の社会はそれぞれで役割をもってもらって、それぞれで頑張ってもらうということで社会全体の富が増すようになっている。一億総活躍なんてもうみんな忘れているかもしれないが。対処すべき配慮すべきという意味合いで使われた言葉なんだからそれを発する人がみんな自覚したらちょっとは息苦しさもなくなるのかなって。