cafe dé nanntoka

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成功者はリスクを背負っているとはいうものの

とにかく近頃言われている、成功者を僻んでいる人はそのひとたちがリスクを背負って挑戦していることから目を背けているということ。

 

昔から何かを成し遂げてきた偉人の話、特に戦後からの復興や高度経済成長期を成し遂げてきた事業家は、美談となって素晴らしい国日本とそこで働く者たちの心の支えになっていた。

バブル経済の崩壊後にはそれまでの経済活動の行き詰まりから、色々な規制緩和やアイディアによる事業を起こすことによる成功者が出現、こういったことからの歪みへの不満を言うものたちへの批判として、こういった文言をよく言う人たちが目立っている。

この高度経済成長期を支えた成功者は頑張って働こうと思う心の支えにしていくような話になっていった。努力は報われるという。

しかしながら、近年のリーマンショックなどを経た何をやってもむだという閉塞感の中ではその意味も変わってくる。挑戦しても無駄だというムードが漂う中において成功を掴んだものはすごいということに。その成功者が成し遂げて世の中にもたらしたこよりも、この厳しいゲームを勝ち抜いたことに評価がおかれたということになる。かつての成功者はエライという価値観だけを残して。

 

こういった閉塞感の中でゲームを勝ち抜いたのもにあこがれを抱くということは、少し戻り小泉改革の頃の時代になるがホリモンフィーバーで顕著になったといえる。新興企業のライブドアが富を独占しているように見えている大手とマネーゲームで渡り合う姿が既得権益を崩しにかかっているように見えたのだ。それは小泉改革で数々の改革を行い既得権益に切り込んでいっている姿に共感を覚えた若者は多い。

こういった空気はそのままに残り、既得権益との闘いはおいて行かれて成功者はリスクを背負い勝ち抜いてエライという空気を作り出した。

 

結局のところ、社会にもたらしたものよりもギャンブルに勝ったものが偉いという価値観が占めている。しかし、実際のところ考えてほしいが、そもそもの成功者はリスクを背負い勝ち抜いたから、なにも戦わない我々は批判してはいけないということなのだろうか。

 

リスクを背負い事業をすることで何を失うのか。それは別に命とか家族とかではない。まあ遠まわしに失うかもしれないけど。制度としてあるわけではない。

失うとしたら、自分の商売をするうえでの地位と、金、あとは融資してもらえる可能性、とか金を借りた親戚やお友達への顔向けか。

商売をするうえでの地位や信頼なんて普通の労働者にはないようなものだし、金なんて普通に働いていても金使いが荒い人は無かったりする。融資してもらえなくなることだって、普通の労働者はありうる。親戚や友達に借りる金に関してはそんなのでリスク背負ってるといってもと。

日本における挑戦というのはいわばギャンブルであり、リスクを背負うというのはいわばギャンブルをまたできなくなるということだ。それはもはや普通の労働をする人にはそれと同じ状況になるだけと考えると、あまりリスクを背負ってるとは思えないし、時間をかけていたとしてもそれは好きでやることなんだから。

その挑戦が失敗したとして、そのツケを社会でしりぬぐいをすることだってある。結局そういったことになってしまった人たちは敬われないが、そうならなかった人たちはみんなに迷惑をかけなかったらスゴイということになる。だが、間違えれば前者のようになることだってありえたのだ。

 

やはりセーフティネットなどの制度化のある日本においてはそのリスクを背負っているということはやはりそんなに偉いということには私は考えにくい。そういったことから、社会に負の影響をもたらす経済活動に成功者への嫉妬はみっともないと切り捨てるのは疑問を覚えざるを得ない。成功者への信仰は世相を反映しているところもあり、普遍の価値観ではない。それが嫉妬はみっともないという割と昔からある価値観に錯覚してしまうのだ。

日本におけるリスクと成功者信仰というものをいまいちど考えて適切な批判的精神を持ってみたらいかがかと提案したい。