cafe dé nanntoka

1に酒、2に音楽、3にアニメ、3、4がなくてあと余談

配偶者を嫁とか書いたりする風習

そういえば、SNSをするまでまったく意識することがなかったけど女性の配偶者を嫁と書いたりする風習がある。これはそもそも関西のほうの習慣だったようではあるが、インターネット上で主に使われるようになったのはおそらく「長門俺の嫁」に始まる俺の嫁といったネトスラングからではないだろうか。

本来なら嫁は姑などから見た、つまりは家に嫁入りした者に対して使うのが一般的である。一般的であったはずである。だが、そうでもないようだ。ネット上では。

嫁さんとか嫁ちゃんなんて書いたりするのもいる。

 

嫁という呼称がもたらす印象

嫁は日本の近年は堅苦しいとされる家制度の象徴的な呼び方であるといえるのだが、それをこうもよくつかわれるようになり、使用している当人たちはさぞ厳格なものかといえばそんなものではない。

結婚してもインターネット上で楽しくツイートしたりインスタグラムに写真をあげていたりするような感じで、結婚する前と後でも印象がかわるものでもない。自分の観測している範囲では。

では、どういった印象になっているのか、それは先ほど述べたネットスラングの「俺の嫁」以降にうける好きであるという気持ちが出てるような使い方であるといえる。この嫁という言葉がすでに薄れつつある家制度を象徴するような呼称であるが故に、気軽に現実感のない言葉として今の20~30代くらいの者に使われているのではないかと考えている。

 

なぜ嫁という呼称が使われているのか

嫁という呼称は正確ではないということを書いたが、よく見かける奥さん旦那さんとSNSで配偶者の話を出す際にも使われるのをみかける。これも日本語としては間違っている。これらは他人からみた話し相手の配偶者を指す言葉である。嫁でも奥さんでも旦那さんでもなく、妻もしくは夫である。しかしながら、よく使われる理由は明快で、自分もそういう日本語を使う知人に話してみると

「だって夫とか妻とかいうと本当に結婚してるみたいじゃん」

と、

「いや、あなたち本当に結婚しているでしょ!?」

とまあ即座にツッコむわけではあるが、まあこれはうちの妻がなんていう感じ話を始めると、非常に堅苦しい印象をうけてしまうということがある。たしかにこういう表現、法律の話のときによく出てくる気がするんだもんな。

 

嫁ということばが使われる背景

こういう言葉遣いが使われる背景としては、堅苦しい夫婦という家制度を構成するユニットのひとつになりたくない、SNSでも気軽に発信していきたいような気持ちがあるのではないかと思う。夫婦というものがライトな感覚になっているのではないかと。家制度の要素の強い言葉でありながら、その家制度が実感しづらいものになっており、それでこそ現実離れした言葉として嫁という言葉が使われるというわけだ。

そして、この嫁や奥さん、旦那さんという言葉は三者から使われるわけで、それこそ他人事のような印象をうけることばだ。

しかし、昨今のSNSは現象を観察して第三者のようなツイートをすることが多い。あえてこういった表現で身近なことをアウトプットしやすくなるということはある。家制度が感覚としては薄れているが、結婚生活に何か息苦しさを抱えながら暮らす人は多い。こういったなかだからこそ、第三者という立場のような言葉を使うことで結婚しても社会とつながり続けたいという意識があるのではないかとわたしは考える。

 

 

ユーリ!!!とユーフォを比較してみて ~あえて目標達成しない~

2016秋アニメ、ユーリ!!! on Iceと響け!ユーフォニアム2が個人的に印象に残った。ユーリはフィギュアスケート、ユーフォは吹奏楽とどちらもアニメの題材としては異色だ。

たまたまそのふたつが同じ時期にやっていたというだけで、特に比べる必要もないとは思う反面、いろいろと思うところもあり…というわけで。

さて、ユーリはすごく女性の方の人気がすさまじい作品ではあったけど、男が見てもしっかりと作りこまれたアニメだからとても引き込まれる。ユーリはスポーツをとりあえずは扱っているものの、決してスポ根(スポーツとか根性とか)の類ではない。フィギュアスケートの表現を感情というものを軸に扱っているという印象をうける。スケートの練習をする場面は多々見られるが、それ自体はとくに重きをおいてはいない。スポーツをするうえで、その選手に足りないものがわかる→それを克服すべく練習→ときには励ましあい、といったようなものではなく、フィギュアスケートをめぐる人間の絆がどう物語とスケートの表現を作り上げるかを見るものだといえよう。

一方、ユーフォのほうも全国大会という目標を掲げ一丸となって吹奏楽に取り組む小説とそれを原作にしたアニメだ。私は小説は読んでないけど。部活で常に練習に取り組むが、吹奏楽という表現行為をするものである。そして、部員はみな練習をする描写はあるが、それぞれのファクターで表現行為を完成させるのはこちらも人間関係をめぐる話が決着したらということであった。

どちらの作品もグランプリファイナル金メダルも、全国大会金賞もとれないで終わるが、ガッカリという感情は残らない。ユーリのほうは、1話で世界の舞台にはあがれたものの、世界では誰にも気にも止められずふさぎこんでる勇利ではあったが、ユリオが勇利のことをヴィクトルよりも先に認めていたという事実がわかる。滑走の順番で最後になったわけで、物語のクライマックスの勇利が歴代最高得点を出す場面のほかに、この部分がもうひとつのクライマックスといえるだろう。誰にも見てもらえてないなんてことはないということがこの作品を通したメッセージともいえるのではないだろうか。そして、金メダルをとれないことで何が残るかというものをこの作品は物語っている。

そして、響け!ユーフォニアムも、いろいろな人間関係を解決しそのたびに表現が豊かになっていくが、そんな成長しきったともいえる状態ながら全国大会は銅賞という結果にすることで、最後の飛鳥と久美子の物語をクライマックスにしたといえる。

どちらも、目指していた場所とは少し違う結果になるということで、最後にそれまでを通じたものを考えさせる構造はまさに、画竜点睛を欠くの完成させないほうが良いという用法のほうであるといえるのではないか。

コンクールや競技は誰にも負けていないものは一人しかいない。そういったものをたたえるドラマというものよりも、目的を達成できなかったときに何が残るか。それをやっていることの楽しさとそれをとりまく人間の絆というものを表現していたというこのアニメ。人類の存亡をかけてたら負けたらまずいよということになるわけだけど、そうではないし、みんなが共感というか、ぐっときてるこの良作がある背景には夢中になって力を出し切ることや、切磋琢磨したいとい、夢中になりたいという願望があるんじゃないかなと(ユーリの腐的あれはのぞく)。

松浦勝人氏の労働基準法観について是正しておきたい点

労働基準法 是正勧告とは|松浦勝人オフィシャルブログ「仕事は仕事で遊びは遊び」Powered by Ameba

において、AVEXの松浦氏が好きでやってる仕事の人にまで労働基準法を押し付けるなと憤慨している。知り合いの使用者側でもこういうこと思ってる人結構いるので、ちょっと書いておきたい点などをば。

最近、そこそこ知名度のある企業の方々残業させないで帰すようにしたら生産性があがった!という記事やツイートを目にするので、好きだからって帰さないでやらせ続けたら会社の損失になるんじゃないんですか。

と、そういったことは自分も眉唾だと思ってるし、かかる社会保険料とかあることだしできるだけ一人当たりを長時間働かせ続けたほうが会社は儲かるんじゃないかなと思う。が、法律は許さないんだけど。

氏の発言としてはやはりなんでウチだけたたかれるんだって気持ちが強いんじゃないかな。

まあ他もやってるのに!思うところも大きい。なんであの車もスピード違反したのにってキレるみたいな。見せしめで大きいところをつるし上げて、他のところにお前らも守れよってやるやり方、前にジャスラックがやってたみたいで好きではないかな。

効果はあるんだろうし、企業が大きくなるとそれなりに公正な組織であることを求められるんだろうけど、それを差し引いても企業競争の不平等になる。

この平等と不平等ってところが、指摘しておきたいところ。

で、松浦氏のいう労働基準法、これは時代に合わせて幾度となく改正をしているのでいつまでも時代遅れなものでもない。これが経済界の要請というか圧力みたいなもので変えられるという面は否めないが。

労働基準法は労働者を保護するためという側面が強い。だから氏のいう嫌で長時間労働をさせられる人を保護しなければいけないというものが主な目的ではある。

だが、それとは別にあらゆる企業が平等に競争をするためのルールでもあるのだ。一方の企業が仕事が好きでやってる人だけで、もう一方が長時間労働はしたくないという企業。好きでやってる側はどんどん労働時間を増やしていけば、競争する長時間労働はしたくない企業のほうは淘汰されてしまう。いやならやめればいいというものではない。生活かかってるし。

だいいち、好きで仕事やってるか?と上から聞かれた「はい!すきです!」って言わざるを得ないでしょと。松浦氏は是正勧告を受けたのを自身の社員の内部告発である可能性を微塵も考えてないのだろうか。

しかし、かといって好きな仕事を好きなだけできる方法を完全に奪ってしまうのは酷である。でも、好きな仕事を好きなだけできる方法があります!

なんと!自分が経営者なら労働基準法は適用されませーん!

または、取締役といったような役職になるとか。

労働基準法は労働者保護と、それを徹底するための競争の平等をセットでしなければ出し抜かれてしまう。そういったものであり、それを適用しない立場はかなり独自の判断と責任で動く立場でなけれならないのだ。もちろん「みなし」は論外。

好きな仕事を好きなだけやりたい人にはこういったポストを与えれば、労働基準法に関係なく好きな仕事を好きなだけさせてあげられますよ、松浦さん。

 

みんながみんな好きな仕事にしかついてない人がいるなら、この主張も通るんだけどねー。

 

しかし、AVEXは社員向けの病院とかケア施設があるってのは驚いたなー。

 

 

透析患者殺せ発言とかちょっと思いだし

ちょっと更新まで時間が空いてしまいました。

いろいろと世の中のことやら煩悩やら、思考整理やら、と書きとめていたのに使っていたつもりでした。結構社会に関することとか、思い付きで世間話の流れで話していると、自分のしゃべっていることの矛盾点とかしゃべっている途中で気づいたりしますよね。というわけでこういう感じでブログに書き留めているとなんとなく、整理できたりする。

しばらく更新してなかったときにいろいろあったけど、実生活において結構話題にのぼったのが長谷川豊アナウンサーの透析患者を殺せとブログに書いたら炎上して、番組おろされまくった話が。

未来を憂いての発言かもしれないけど、これは全く正当性がないのは燃えまくった様子を見ればわかることかと。透析によって保険運営が危ないというのも伝聞によって書かれていることだったし。

氏への追及は多くの方が理詰めでしてらっしゃるようなので、それはおいておいて、自分が実生活で話をしていて世間話にこの話題が上る際に

「でも、このままじゃ保険制度も危ないかもしれないし…」

と、一定の理解を示す人がいるという。いや、でも立憲主義の日本の憲法にも基本的人権の尊重というのがあって、その中の生存権があるよ?国家が大きくそのあり方にかかわる健康保険という制度の中では患者が透析治療をあきらめざるを得なくなるようになる判断を国が下すというのは難しくないかと。憲法というものは国の在り方を律するものであり、日本が日本であるための決まりといってもいい。本当にその予算がないとなったら、基本的人権を優先させほかのところからなんとしてでも金をひっぱってこなきゃいけない。

自堕落な透析患者は殺せと件のエントリには書かれていたが、そもそもどこからどこまでが自堕落なのか判断できない。違法行為によって病気になったわけでなし。もちろん、日本の保険制度には喧嘩ふっかけて負傷したら全額自己負担になったりするとか、自業自得な場合の治療費は自分で払わなきゃいけないときもある。

と、丁寧に説明しても

「そんなことできるわけない」

と反応される。実際のところ透析治療をやめさせる(負担させろという主張だったが、実質やめさせるということに等しい)のも、日本の今の仕組みとしては難しいのである。

 

そこで、とくに枷となることもなくこの状況を打開する方法として、最もオーソドックスなのが、ズバリ予防医療。みんなで健康に気を付けましょうという至極ふつうに聞こえるかもしれないけどすごく効果のある手段。

と、説明してもまあ自分的にもそう簡単にはいかないかとも思うけど、今透析治療してるひとを切り捨てるよりは実効性はある。

そういっても日本の保険制度を憂うマンたちは

「夢物語だ」という返答をするけど、できないことをやれというよりは現実的なんだけど。

 

と、このような会話を通じて思ったことを書きたかったんだけれども、こういった人たちはこの閉塞感を脱するのは誰かを切り捨てることでしかできないという思考になっているのを感じた。

こうなったターニングポイントはいつかなと思うと、痛みを伴う改革ってやつかなーとか。

みんなで予防医療に取り組むのが一番いいはずなんだけど、まずだれかが切り捨てられなきゃみたいな思考に陥るの、あ、ゲーム理論というやつに近いなと思い出す。

このての社会問題は本当にゲーム理論に行き着いてしまいなかなか結局そうなんだよね、うまくいかないよねって結んじゃうところあるので、もう一歩進んで考えてみたい次第。

 

個人的、三宅洋平とそれに反応する世間に対する評

2016年7月参議院選挙にてミュージシャン三宅洋平が2013年の参議院に次き再度緑の党より立候補した。そして、落選。

この人に対する世間の風当たりがすごく強くなっているなと感じる今回、前回の17万票から25万票まで伸ばしたのは驚いた。比例してみなさんの批判も強くなっていくのもわかる。

三宅氏よろしく、この手の方々は批判にさらされると自身の信念の正しさをより強固に確信する傾向にあるようで、この三宅氏も生涯政治に身を捧げると宣言されていた。

 

ちなみに前回の参議院選では様々なことを考慮して自分は比例で三宅洋平と書いて投票したが、今回は様々なことを考慮して比例では自民党に入れた。特にこの選挙上でのSNSで見られた「これだから左翼は」みたいな声は見ててヤレヤレとなるし、野党は批判しかしないという声に対してはそれは立派な役割だと思うし民主制を保証するために必要な機能だ。

一方、三宅氏に対する批判はナチュラリスト(笑) オーガニック(笑)、といったものや過去の問題発言をめぐる声が多い。この似非科学を信奉する謎のミュージシャンという風に見えてしまうのもまあ無理はない。自分が前回、三宅洋平に投票した理由としては、氏のかつてやっていたバンドの犬式が大好きだったのはなくもないが、ツイッターの上でのアレな発言などではなく、ちゃんと政策をまとめたのを見てみたら建設的な政策を提案しているとその時は考え、その時の様々なことを考慮して投票した。

それはさておき、犬式すごくかっこいいのでオススメです。


月桃ディスコ/犬式a.k.a.Dogggystyle

 

 そして、自分も周りの親しい音楽の話をできる人と話してみると、犬式は大好きだけど三宅洋平に入れなかったという人は多かった。ちゃんと自分は切り離して考えていると。犬式の音楽性はレゲエをベースにしているところもあり、自然回帰なところを感じることができる。今の資本主義に迎合しないカルチャーといったところだ。

しかしながら、ちゃんとその社会においてもこの音楽は居場所がある。犬式の音楽、さらにはアルバトラス(三宅氏が犬式後に結成したバンド)は音楽共同体原体験のようなものがあり、いわゆる根源的なものがあるといったものもあり、それがナチュラリスト(笑) オーガニック(笑)などとされるのではあるが、わりと理想として受け入れられやすい。

この反社会性をも含む文化をその一部にしてしまう資本主義はかつてのロックにおいてもいえる。ヒッピームーブメントは爆発的に広がったが何ももたらさなかったナマケモノの堕落としかとらえてない大人は多いが、そういうことを言う一方であのころはすごかったなという思い出として残っている。

こういったムーブメントが抜群の知名度を誇る一方で、本当に支持されているかというとよくわからないところがある。この三宅洋平においても、彼のミュージシャン仲間も政策を支持するわけでもなく、こいつはすごいから!みたいな感じで支持する姿を見るし、三宅洋平の音楽に期待する人はまだいる。

現に、商業音楽活動の箍がはずれて選挙活動と音楽を積極的にした三宅洋平がどんどんう票を伸ばしているのは事実ではあり、反資本主義的なものをもその一部にしてしまう資本主義の機能が、それを政治にまで飲み込んでしまうとどうなるのかというのを次の選挙で見たくなってしまうようなところが個人的にはある。

 

 

個性 とは

僕のヒーローアカデミア、溜まってたアニメ見終えたよ。2クール目とかあるかな。ジャンプの人気もなかなかあるみたいで。

 

そのジャンプで人気を得ているだけあって、ジャンプの努力、友情、勝利は押さえている作品だと思った。面白い。

そして、この作品でキャラクターの特技にあたるもは、個性と表現されている。今までのジャンプではドラゴンボールやワンピース、キン肉マンとみなそれぞれ個性とよべる特殊な能力を持っている。僕のヒーローアカデミアでは、主人公にはそれがない。話の流れで得るけど(ワンピースもそうか)。

ジャンプでは、主人公がみな最初は非力でも何か光るものを持ち合わせていって努力して、友情、勝利といったものが多いけれども、この作品では徹底的に非力で努力しても無駄だということを描写している。

思えば、漫画のストーリー、ラノベのストーリーは主人公が他とは違う能力を持っていて、それが原因で普通とは違うみたいなものが多い。みんながよく授業中に妄想するのとして、俺はこいつらみたいな普通なのとは違うみたいなものを踏襲したもので、そのほうが読者の共感を得やすいのだろう。

僕のヒーローアカデミアにおいては、まわりが個性を持っているが、自分だけはないというコンプレックスを抱えているところからスタートする。漫画を始めるにあたり、読者の共感を得るような設定を考えるし、人気作になっているところを見るとそれは的中したのだろう。

そこに自分はある種のパラダイムシフトを感じた。最近は色々な分野で、若いながらも活躍する人や、独自の考えで注目を集める先駆者がやたら取り上げられる。こういったものを見ると、こんなすごい人がいるんだと思うが、それがあふれると自分は凡人なんだというものを感じてしまう。こんなに世の中には才能にあふれている人があふれてるのに自分は…。という。

昔では、自分は他の人とは違うと思っているような人を共感させるものが多く、この作品においては他は個性があるが自分だけがないというところからスタートする。でも、今も昔も普通の人がほとんどともいえるし、みな個性があるともいえる。

実のところ、今も昔も才能発揮できてる人なんて多いか少ないかなんてわからないもんだ。今の若い人らは同世代が活躍しているニュースなんかを見れば見るほど、自分たちが活躍していく姿をより非現実的なものに捉える仕組みができつつあるのではないかということを感じずにはいられない。

 

 

アニメ亜人を一気に見て本性なんぞについて考えてみた。

アニメ、亜人たまってのを一気に見終えた。3D表現にややとまどいつつも、徐々に見ていくうちにこれでしかできないな!と思った。

話としては、この主人公永井が望まない状況を強いられ、徐々に自身の性格が表れていくことに気づいたり、強くなったりといったところがワクワク要素だった。もちろん、佐藤さんもすっげーのが見ててスリリング。

 

この永井君、色々本人が望まないのにどんどん強くなったり本来の性格のようなものがあらわれていたりというわけだけど、結構我々の生活でも追い詰められて本性を現したなアイツみたいなことっていうよね。

 

本性を現しやがったとかいう例

本性を現した例といえば、よくいうバックレとかそのばしのぎなどといったものがあったあと、もしくは裏切りのようなものがあったあとに言う。積極的に人を陥れようとかそういう場合を除いて、こういった本性つまりは回避行動というものは人間、いや生物というものにはそもそも備わっているものだ。

どうにもこうにもうまくいかなくなって本性をあらわす、バックレ的なものは生物として当然の機能なのだ。このままここにいたらヤバイみたいな。

 

本性を図ろうとするような

さて、大分昔から圧迫面接のようなものでストレスをあたえることによって本来の自分を見るといったようなものを取り入れているような企業も多い。人間の本性、なんて自分の身を守ることと繁殖。それにつきる。

むしろ社会にいきるということはそれらを遠くにおいて過ごせるかということだ。過酷な環境の中で他の人が脱落していくのを見て本性を現したななどといってるのは、そう言ってる人が本性を失っているということなのではないだろうか。