舛添さんがダメで、石原さんが大丈夫だった理由(大丈夫じゃなかった)
舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日! それでも石原が批判されなかった理由|LITERA/リテラ
はい、舛添東京都知事辞任の表明をしたね。この記事において、石原前都知事の外遊での浪費っぷりとそれを批判してもあとから他のメディアが続かなかった理由をメディアの懐柔と権力とのつながりといった点で解析していたけど実際のところどうだろうか。
石原前都知事めっちゃ批判されてたでしょ
そう、石原さんめっちゃ批判されてましたね。お家芸の失言で。もう結構前なので記憶がおぼろげな方は”石原都知事 失言”などでググってみましょう。
正直いってすごかった。連日このお方のちょっと妄言なのでは…と心配してしまうようなことを言ってるのをテレビやネットで見かけた。
つまるところ、外遊の浪費なんかよりもこんな刺激的なことを言ってるのをバンバン取り上げたほうがマスメディアにとっては見てる側を楽しませることができるのだ。
対して舛添知事は
対して舛添さんは、この本人のおっしゃるところの「不当ではないが不適切かと思われても仕方がない支出」について、セコい。という声があがっていた。
そう、この舛添さんを取り上げるにあたっては、「セコい」というところにフォーカスすることによってエンターテイメントにしているわけだ。
石原前都知事と違って舛添知事がやめざるをえなくなってしまった理由
石原都知事がマスメディアに提供していたエンターテイメントは失言であり、本人の思想といったものが反映されている。また、問題発言の類には条例などで明確な処罰になるようなものはない。
対して舛添知事がマスメディアに提供したエンターテイメントは、セコいという公金の使い方で、条例や規則、法律などに抵触してしまうかもしれないものがメインコンテンツなのだ。
またやっかいなことに、石原さんの過激発言は結構同調してる人もいたようで、賛否両論という図に見えてしまい、メディアによる糾弾というよりは石原ショーの中継といったようなものになってしまった。舛添さんの問題はどこまでいっても同調したり共感は呼ばないところが分が悪かった。
メディアが時間を割いてるような報道って結局は
で、石原都知事の金の使い方についてあまり叩かれなかったのは、権力とべったりだったりメディアの懐柔ってのはちょっと深読みしすぎなのではという考えではあるが、舛添知事の追及に関してはやや過熱気味になってるのではと感じる。他に問題にすべきことはある。
東京に関してでいえば、電通が絡んだ五輪誘致贈賄疑惑とか、本当ならば一企業の利益誘導のために莫大な国家予算を使うことになるのではという問題だ。しかも、なんやかんやで当初の金のかからない五輪というコンセプトは吹っ飛んで。
そして、パナマ文書を発端とした租税回避地問題だ。
これらは、日本の足りないとされている社会保障費などの部分にもかかわってくるような大問題ではあるが、やはりエンターテイメント性がマスメディアが取り上げるとしては低いんだろうなという。
メディアで派手に取り扱うトピックは結局のところウケそうだからということが大きい。今現在のニュースなどを見るうえでのリテラシーとして、派手に扱ってるトピックは必ずしも重要だからではないということを認識していくのが必要なんではないかな。
ハルヒってすごかったよねって話。
アニメ化十周年ということもあり思い出したけど、涼宮ハルヒの憂鬱、すごかったよね。アニメ。というか、現象として。
涼宮ハルヒの消失がもんのすごく待ってしまったということと、アニメやメディアミックスが売れすぎて原作者が筆が進まなくなってしまったのかなと想像をしてしまうこともあるけど。
日本もアニメを作り始めてすでに半世紀以上の時が経過しているし、鉄腕アトムからは53年が経過している。そういった中で、日本のアニメ史において重要な作品は何だったのか?というものを挙げているフォーラムや掲示板、ブログなどでも涼宮ハルヒの憂鬱を挙げている人も多いが、いやいや過大評価でしょ。という声も多い。
だがしかし、今思い起こすとハルヒ、色々と影響あったよねって思うわけ。
●涼宮ハルヒの憂鬱のどこらへんが影響を与えてたか
涼宮ハルヒの憂鬱のアニメ、これがどれよりも面白いとか、ここが良いとかそういう話ではなく、色々と2016年現在のアニメの状況や文化的な影響を与えた点でざっと思いついたのは以下のとおり
・ラノベアニメ化の活発化
・インターネット二次創作の活発化
・踊ってみた
・キャラソン
・クオリティ主義
■ラノベアニメ化の活発化
もちろん、それまでにもラノベをアニメ化したものはあったし、ハルヒ以上にヒットしたラノベアニメもあるんだろうけど、このアニメをある種の転機にぐんと伸びていたと感じる。後述するが主にネット上で。
■インターネット二次創作の活発化
ハルヒのアニメを放送していた2006年は、ツイッターはなかった。主に個人サイトやブログ、ミクシィなどで二次創作絵を書いていたひとたちはどちらかというと個人サイトを立ち上げてやってたひとが多かったかな。あ、pixivもまだなかった。
そんな個人サイトのハルヒ絵の二次創作は、色々と個人サイトめぐっているとやたら見るし、新作ハルヒの二次創作やパロディ絵などをよくまとめて見ていたのを覚えているし、何かインターネットのそういった何かを好きなのが無意識的に好きな作品でまとまっているのを感じたのもハルヒのアニメだった。
■踊ってみた
踊ってみた、爆発的に流行ったのはまちがいなくハレハレ愉快ですね。
■キャラソン
これも以前からあるけど、キャラごとにキャラソンというものそれぞれリリースするのをここまで定着させたのはあるんじゃないかな。踊ってみた、キャラソン文化これらを初めて認識したのは間違いなくハルヒのアニメだった。
■クオリティ主義
京都アニメーションの脅威の技術力というのもこの作品を知らしめる一因ではあった。というか、このシーンの作画がすごいって話題をここまでしているのを初めて目にしたのもハルヒだった。また、DVDが発売されるたびに本放送でも高い完成度だったところをさらに妥協しないで仕上げてくる比較画像も盛り上がった。
アニメの作画クオリティで盛り上がる文化をさらに押し上げた感はあるし、昨今のアニメーター不足というのに陥る状況に遠因ではあるが無関係ではないような気もする。
★涼宮ハルヒの憂鬱が重要な作品になれたのはじつのことろ
涼宮ハルヒの憂鬱のアニメがここまでのアニメになれたのは実のところ、youtubeが大きかったのではないかということ。深夜アニメでしかも全国放送ではないけど、みんな見れてたしネットでここまでもりあがってたのはyoutubeでゴニョゴニョして見てたでしょ。ということ。
それまでも、ドラゴンボールやエヴェアンゲリオンをゴニョゴニョしてる人いた。そういった中で、新作でゴニョゴニョしてリードする作品だったのではないかと。
まだ動画サイトの著作権が甘い中で、しっかりした原作で妥協なきクオリティを投入できたハルヒが伝説になれただけということもいえる。
★影響を与えるとは
このように、何が当たるかというのはまったく読めないもので、しかしながら、この時に仕掛けるぞというタイミングで全力投入できたアニメというものはハルヒのようになれるというのだろう。だから、日夜当たるように頑張って作ったりしてるわけで。
しかし、真の意味で影響を与えるということは、その作品を見て育った若い才能が新たな表現をして人々の感情を動かすことであると自分は考えるし、人類の表現はそういった積み重ねなんじゃないかなって思う。
最高にロック。というの間違ってるんじゃ?という声に反論してみる。
「彼氏と付き合いつつ次の男を見つけ次第乗り換えて別れる女」を軽い女だと叩く世間の風潮に対して女友達が… - ツイナビ | ツイッター(Twitter)ガイド
より。
「彼氏と付き合いつつ次の男を見つけ次第乗り換えて別れる女」を軽い女だと叩く世間の風潮に対して女友達が言った、「転職先の目処も立てずに仕事辞めるほど無計画じゃねえんだよ」ってセリフ、最高にロックだ。
そういえば、このツイートがバズってたとき、死ぬほど
「いや、めっちゃ計画的じゃん!ロックじゃないじゃん!」
という声が上がりまくってたなと思いだした。ロックミュージックが生まれた過程において、そのディストーションサウンドや大音量、既存のポップスやクラシックにとらわれない音楽性などのいわゆるロックンロールからの連想だろう、破天荒なことや反骨精神にあふれたことなどを評して
「最高にロック」
と、いうことが多い。出典は無いが自然発生的に生まれたネットスラングだろう。たしかにこういった声を見てわかるとおり、最高にロックといってる他のネット上の書き込みに比べて計画性に溢れたこの文章、ロックを感じないかもしれない。
このロックの破天荒であったり、反骨精神であったりといったイメージは爆発的に広まったのは日本ではウッドストックあたりであろうか。それまででもエレキギターを大音量で鳴らした音楽を大人たちは不良の音楽と位置付けたことも大きい。
その後のウエストウッドなどで「ヒッピー最高!」な人たちが色々とあとからつけを支払ってるような状況を見たり、愛と平和を叫んでるけど世界はなかなか変わらないといった徒労感を見て、なんとなくこういうのはダサいという雰囲気はそれ以降の世代にも広まってきてるのではないか。自分の通っていた学校でも、義務教育でウッドストックのフェスの話題に触れた教師が
「ここに集まってる人たちはろくに働きもしないで麻薬やってるダメなひとたちですよ」
って英語の教科書のウッドストックの部分を指して言ってたのを思い出す。
結局のところ、ロックの持つ革命的エネルギーは忘れ去られロックは形容詞となったわけである。
で、この最高にロックという使い方違うのでは?に反論してみる
最高にロック、という賛辞は風潮とか空気にとらわれず己を貫くことというのでネット上で使われているのは一致している。この書き込みも、軽い女と世間が叩く風潮に反論として言ってるので、OK。さらに男女間の関係はギリギリまで信じるべきということにも反論している。己のために。でも、男女の婚姻関係となると、ちょっと複雑だからね。
ロックの持つ反骨精神、社会運動はみんなの利益のためにという精神があったし、そのために勝ち取るんだという意思があった。こういった活動の収縮を受けて、個人は個人で自分の権利は空気を読まずに勝ち取らなければならないのが、最高にロックなのではないかとこのツイートの件を見て思い出したのであった。
世の中に不満があるなら自分を変えろの誤解。
アニメ攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX冒頭で草薙素子が体制批判をするテロリストを捕まえてこう言い放つ。
世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…
それも嫌ならに続くのは死ねとか死になさいというのが続くのだろうなと。
サリンジャーからの引用についてはこの話題ではおいといて、このセリフ、非常にインパクトが強く同作においても名台詞として挙げる人はとても多い。くわえて。このセリフは伏線となっているともいえるのだけど、ちょっと誤解をされるのが目立つ。真意から多少遠ざかるのではないかと。
・どのように誤解されているか
このセリフの解釈において、自分が誤解している人が多いのではないかと考えるのはまず、不条理な世界に生きていく術として捉えている声を多く見かけるからだ。
これが本当に多い。
「世の中って不条理だから、文句言ったってしょうがない!自分が変わらなきゃね!」って思う人がマジで多い。知恵袋とかブログとかで見るんだけど。
・共感を得る積極的行為としての「自分を変えろ」
こういう風に思ってしまうのは、攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEXおよび攻殻機動隊のシリーズをSFを交えた職業アニメとして捉えてるからということもあるんだろう。色々としがらみや思惑などもある組織の中で、それぞれがクールに信念とか主義主張などを目立ってすることなくこなしていく姿は中々爽快である。
自分も社会においてなんとなく立場みたいなものというか、何かの役割になんとかはまることに成功してからは、失敗とかを自分のせいではないと言ったり、やたらと世の中のせいにして努力してない人とか見るとイライラするなというのは感じる。
・このセリフを理解するのに注目すべき少佐の苛立ち
さて、このテロリストを追いつめた少佐が件のセリフを言った際は少し苛立ったような表情を見せる。一方、攻殻機動隊SACの14話”全自動資本主義”では、金の亡者の横瀬を暗殺しに来た殺し屋、恨みを持っていたとはいえ反資本主義的なことをにおわせるセリフを言ったりするなど、この人もこの世の中の仕組み=資本主義に恨みをもつタイプだといえるが、特に少佐も苛立ちは見せない。
こちらの殺し屋も明らかに世の中のほうが間違っていると言うようなタイプだ。
そもそも、少佐は全話を通して大体クールにふるまうのである。だからこそ、1話冒頭の特に話にも絡んでこない小物と思われるテロリストへの苛立ちだったとしたら、おかしいなとひっかかるはずである。ここでもう一度セリフを
世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…
劇中での笑い男が少佐の正義感について指摘したところを思い出してほしい。少佐は割とむきに否定しているけれども、実は世の中の不正を見逃せない正義感をもっている人物であることは感じることができる。この説教のいらだちは世の中の不正を見逃せるような性格ではあるものの、そういった不条理に合わせて自分を変えるしかない少佐自身への苛立ちと読み取れる。
そして、本当にこのセリフが共感できるカッコイイ説教として広まりすぎるなと思う。
こういった背景には今まで数々のカウンターカルチャーが社会に広まることはあったけれども、結局すべて徒労感だけを残して、世の中に文句言うやつらは碌な奴がいないみたいな空気だけを残したのがあったからなのかなと。
そういった中、攻殻機動隊のアニメはギリギリ不条理な社会の一部として動きながらも、信念を感じられる絶妙なところが「職場アニメ」としてウケたのかと思う。
というか、まあ少佐、結局世の中に文句あっても自分を変えられなくて職場放棄しちゃった人ですから!!!!!!
刺されたのがアイドルでもシンガーソングライターでもという声
20歳女性アイドル心肺停止、首や胸など20か所以上メッタ刺し…東京都小金井市傷害事件 (スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
世間をにぎわせているこの報道に関して。被害者の方にはなんとか回復していただきたいものではあるが、この冨田さんについてアイドルと報道されているけど、アイドルではなく正しくはシンガーソングライターであるという指摘をネットでよく見かけた。
本人の名誉といったものを尊重する意図にもみえる声もあったが、それだけではないようにも見えたともいえる。
アイドルとして活動していた時期もあるが、あくまで今はシンガーソングライターであると。
この反論に対してよく見かけた声としては「ドルオタは狂ってるのと一緒にしてほしくねえのかな」って意見や「こういった接触する機会があるイベントでは危険性があることに目を背けたいのか」などといったこともあった。
「アイドルでもシンガーソングライターでも一緒でしょ。何に怒ってるのこのひとたち」という声もあった。
そういえば、NHKでは芸能活動をしていた女性と紹介していたかな。この報道において、シンガーソングライターであることに関して、何が問題になるのかということかである。
NHK以外のニュースメディアがアイドル、もしくは地下アイドルという肩書で報道、そのファンによる犯行ということで報道することによって、我々はどういったイメージを受けたか。自分もそうであったように、ステレオタイプなアイドルファンの凶行という絵が浮かんだはずだ。
このステレオタイプというものは瞬時に皆の共通認識に表れてことの本質をわかりにくくするやっかいな面がある。被害者の方もアイドルとして活動していたというわけでもなく、犯人もSNSへの書き込みを見たとしても決してアイドルオタクといった部分は見て取ることはできない(正常な精神状態で書き込んでいたかという点はあるが)。
この問題において、報道をされることアイドルとそのファンの凶行という構図にして報道されることによって、イメージしやすいものになるということは報道としては成功ではあるが、そういったことはより我々にとっての非現実感をもたせてしまうことになるのだ。
今、ツイッターやFACEBOOKなどのSNS、さらにはインスタグラムやニコニコ生放送、youtubeなどで芸能事務所に入るような人でなくても何かしらの注目を多く集めることができてしまう。そういった人たちの防備の甘さといったことの問題は多いにある。本人に近づくような機会があるということはアイドルなどの現場においても共通する問題はあるといえるが、自分で発信するということを今一度考えてみてほしいところ。
成功者はリスクを背負っているとはいうものの
とにかく近頃言われている、成功者を僻んでいる人はそのひとたちがリスクを背負って挑戦していることから目を背けているということ。
昔から何かを成し遂げてきた偉人の話、特に戦後からの復興や高度経済成長期を成し遂げてきた事業家は、美談となって素晴らしい国日本とそこで働く者たちの心の支えになっていた。
バブル経済の崩壊後にはそれまでの経済活動の行き詰まりから、色々な規制緩和やアイディアによる事業を起こすことによる成功者が出現、こういったことからの歪みへの不満を言うものたちへの批判として、こういった文言をよく言う人たちが目立っている。
この高度経済成長期を支えた成功者は頑張って働こうと思う心の支えにしていくような話になっていった。努力は報われるという。
しかしながら、近年のリーマンショックなどを経た何をやってもむだという閉塞感の中ではその意味も変わってくる。挑戦しても無駄だというムードが漂う中において成功を掴んだものはすごいということに。その成功者が成し遂げて世の中にもたらしたこよりも、この厳しいゲームを勝ち抜いたことに評価がおかれたということになる。かつての成功者はエライという価値観だけを残して。
こういった閉塞感の中でゲームを勝ち抜いたのもにあこがれを抱くということは、少し戻り小泉改革の頃の時代になるがホリモンフィーバーで顕著になったといえる。新興企業のライブドアが富を独占しているように見えている大手とマネーゲームで渡り合う姿が既得権益を崩しにかかっているように見えたのだ。それは小泉改革で数々の改革を行い既得権益に切り込んでいっている姿に共感を覚えた若者は多い。
こういった空気はそのままに残り、既得権益との闘いはおいて行かれて成功者はリスクを背負い勝ち抜いてエライという空気を作り出した。
結局のところ、社会にもたらしたものよりもギャンブルに勝ったものが偉いという価値観が占めている。しかし、実際のところ考えてほしいが、そもそもの成功者はリスクを背負い勝ち抜いたから、なにも戦わない我々は批判してはいけないということなのだろうか。
リスクを背負い事業をすることで何を失うのか。それは別に命とか家族とかではない。まあ遠まわしに失うかもしれないけど。制度としてあるわけではない。
失うとしたら、自分の商売をするうえでの地位と、金、あとは融資してもらえる可能性、とか金を借りた親戚やお友達への顔向けか。
商売をするうえでの地位や信頼なんて普通の労働者にはないようなものだし、金なんて普通に働いていても金使いが荒い人は無かったりする。融資してもらえなくなることだって、普通の労働者はありうる。親戚や友達に借りる金に関してはそんなのでリスク背負ってるといってもと。
日本における挑戦というのはいわばギャンブルであり、リスクを背負うというのはいわばギャンブルをまたできなくなるということだ。それはもはや普通の労働をする人にはそれと同じ状況になるだけと考えると、あまりリスクを背負ってるとは思えないし、時間をかけていたとしてもそれは好きでやることなんだから。
その挑戦が失敗したとして、そのツケを社会でしりぬぐいをすることだってある。結局そういったことになってしまった人たちは敬われないが、そうならなかった人たちはみんなに迷惑をかけなかったらスゴイということになる。だが、間違えれば前者のようになることだってありえたのだ。
やはりセーフティネットなどの制度化のある日本においてはそのリスクを背負っているということはやはりそんなに偉いということには私は考えにくい。そういったことから、社会に負の影響をもたらす経済活動に成功者への嫉妬はみっともないと切り捨てるのは疑問を覚えざるを得ない。成功者への信仰は世相を反映しているところもあり、普遍の価値観ではない。それが嫉妬はみっともないという割と昔からある価値観に錯覚してしまうのだ。
日本におけるリスクと成功者信仰というものをいまいちど考えて適切な批判的精神を持ってみたらいかがかと提案したい。
交通弱者様
車とか運転できない人ではなく、道路交通における、です。
先日のエントリー 自転車乗りが歩行者に物申したらにおいて、この発言者は歩行者は確かに交通弱者かもしれないが、歩行者も安全対策をしていなかったら痛い目にあうのはそっちだぞ?ということを書いてあった。とんでもない狂った自転車乗りに出くわすことだってある。ということで。
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