春だから葉加瀬太郎の芸術は人間性に関係ある理論を擁護してみる
春、そろそろ社会に放流された右も左もわからない稚魚たちが虫の息なんじゃないかと心配してる。自分も虫の息だけど。
高嶋ちさ子の“子育て論炎上”に葉加瀬太郎が反論 「あんなに純粋で美しい音色を奏でられる人に悪い人がいるわけがない」と持論述べるも炎上 - ねとらぼ
高嶋氏を擁護するというよりは葉加瀬氏を擁護する感じで書く。まあこの擁護発言は事態をブーストさせたからご友人として正しい行為かはさておき…
春だから、というわけでそろそろ新社会人も会社の中の人々を見て自分もあんなスマートに仕事こなす人みたいになりたいなという気持ちになることもあるんではないか。
これも非常に自分も覚えがある。仕事をしながらも自分をしっかり主張して、人生を楽しんでいる人をうらやましく思い、こうありたいなと。
これが仕事できなかったら、なんなのアイツ…という風に思ってたことだろう。
社会における拘束時間の多くを占める仕事、この中ではできる人とできない人、これらで人間性を見てしまうことは無意識を含めてかなり多いのではないかな。
その最たるものが採用面接とかいえるんじゃないかと。
この仕事ができるできないで、人間性を判断してしまうところは同業他社の人と話す機会でもなんとなく判断してしまう。この人と働ける人は幸せそうだなみたいな感情とともに。
話を高嶋氏を擁護した葉加瀬氏に戻そう。葉加瀬氏も高嶋氏も決して趣味で演奏をしているわけではない。そう、仕事としてだ。職業芸術家、演奏家といえる。
我々が仕事をできる人に対しての人間性を混同したような眼差しを、葉加瀬氏は高嶋氏に抱いているといってもよい。
人間性と芸術は関係があるということは中々理解を得られないが、仕事ができる人は人間としてもできてると書けばかなり印象が違うんじゃないかな。
と、結局立場が違う人がでてきて擁護したりすると発端であるゲーム機の破壊とかについてどうでもいいじゃんみたいになって噛み合わない例のひとつなんだなと確認したのであった。