cafe dé nanntoka

1に酒、2に音楽、3にアニメ、3、4がなくてあと余談

世の中に不満があるなら自分を変えろの誤解。

 アニメ攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX冒頭で草薙素子が体制批判をするテロリストを捕まえてこう言い放つ。

世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…

 

それも嫌ならに続くのは死ねとか死になさいというのが続くのだろうなと。

サリンジャーからの引用についてはこの話題ではおいといて、このセリフ、非常にインパクトが強く同作においても名台詞として挙げる人はとても多い。くわえて。このセリフは伏線となっているともいえるのだけど、ちょっと誤解をされるのが目立つ。真意から多少遠ざかるのではないかと。

 

・どのように誤解されているか

このセリフの解釈において、自分が誤解している人が多いのではないかと考えるのはまず、不条理な世界に生きていく術として捉えている声を多く見かけるからだ。

これが本当に多い。

「世の中って不条理だから、文句言ったってしょうがない!自分が変わらなきゃね!」って思う人がマジで多い。知恵袋とかブログとかで見るんだけど。

 

・共感を得る積極的行為としての「自分を変えろ」

こういう風に思ってしまうのは、攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEXおよび攻殻機動隊のシリーズをSFを交えた職業アニメとして捉えてるからということもあるんだろう。色々としがらみや思惑などもある組織の中で、それぞれがクールに信念とか主義主張などを目立ってすることなくこなしていく姿は中々爽快である。

自分も社会においてなんとなく立場みたいなものというか、何かの役割になんとかはまることに成功してからは、失敗とかを自分のせいではないと言ったり、やたらと世の中のせいにして努力してない人とか見るとイライラするなというのは感じる。

 

・このセリフを理解するのに注目すべき少佐の苛立ち

さて、このテロリストを追いつめた少佐が件のセリフを言った際は少し苛立ったような表情を見せる。一方、攻殻機動隊SACの14話”全自動資本主義”では、金の亡者の横瀬を暗殺しに来た殺し屋、恨みを持っていたとはいえ反資本主義的なことをにおわせるセリフを言ったりするなど、この人もこの世の中の仕組み=資本主義に恨みをもつタイプだといえるが、特に少佐も苛立ちは見せない。

こちらの殺し屋も明らかに世の中のほうが間違っていると言うようなタイプだ。

そもそも、少佐は全話を通して大体クールにふるまうのである。だからこそ、1話冒頭の特に話にも絡んでこない小物と思われるテロリストへの苛立ちだったとしたら、おかしいなとひっかかるはずである。ここでもう一度セリフを

世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…

劇中での笑い男が少佐の正義感について指摘したところを思い出してほしい。少佐は割とむきに否定しているけれども、実は世の中の不正を見逃せない正義感をもっている人物であることは感じることができる。この説教のいらだちは世の中の不正を見逃せるような性格ではあるものの、そういった不条理に合わせて自分を変えるしかない少佐自身への苛立ちと読み取れる。

そして、本当にこのセリフが共感できるカッコイイ説教として広まりすぎるなと思う。

こういった背景には今まで数々のカウンターカルチャーが社会に広まることはあったけれども、結局すべて徒労感だけを残して、世の中に文句言うやつらは碌な奴がいないみたいな空気だけを残したのがあったからなのかなと。

そういった中、攻殻機動隊のアニメはギリギリ不条理な社会の一部として動きながらも、信念を感じられる絶妙なところが「職場アニメ」としてウケたのかと思う。

というか、まあ少佐、結局世の中に文句あっても自分を変えられなくて職場放棄しちゃった人ですから!!!!!!

 

 

 

刺されたのがアイドルでもシンガーソングライターでもという声

20歳女性アイドル心肺停止、首や胸など20か所以上メッタ刺し…東京都小金井市傷害事件 (スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

  世間をにぎわせているこの報道に関して。被害者の方にはなんとか回復していただきたいものではあるが、この冨田さんについてアイドルと報道されているけど、アイドルではなく正しくはシンガーソングライターであるという指摘をネットでよく見かけた。

本人の名誉といったものを尊重する意図にもみえる声もあったが、それだけではないようにも見えたともいえる。

アイドルとして活動していた時期もあるが、あくまで今はシンガーソングライターであると。

この反論に対してよく見かけた声としては「ドルオタは狂ってるのと一緒にしてほしくねえのかな」って意見や「こういった接触する機会があるイベントでは危険性があることに目を背けたいのか」などといったこともあった。

「アイドルでもシンガーソングライターでも一緒でしょ。何に怒ってるのこのひとたち」という声もあった。

 

そういえば、NHKでは芸能活動をしていた女性と紹介していたかな。この報道において、シンガーソングライターであることに関して、何が問題になるのかということかである。

NHK以外のニュースメディアがアイドル、もしくは地下アイドルという肩書で報道、そのファンによる犯行ということで報道することによって、我々はどういったイメージを受けたか。自分もそうであったように、ステレオタイプなアイドルファンの凶行という絵が浮かんだはずだ。

このステレオタイプというものは瞬時に皆の共通認識に表れてことの本質をわかりにくくするやっかいな面がある。被害者の方もアイドルとして活動していたというわけでもなく、犯人もSNSへの書き込みを見たとしても決してアイドルオタクといった部分は見て取ることはできない(正常な精神状態で書き込んでいたかという点はあるが)。

この問題において、報道をされることアイドルとそのファンの凶行という構図にして報道されることによって、イメージしやすいものになるということは報道としては成功ではあるが、そういったことはより我々にとっての非現実感をもたせてしまうことになるのだ。

今、ツイッターFACEBOOKなどのSNS、さらにはインスタグラムやニコニコ生放送youtubeなどで芸能事務所に入るような人でなくても何かしらの注目を多く集めることができてしまう。そういった人たちの防備の甘さといったことの問題は多いにある。本人に近づくような機会があるということはアイドルなどの現場においても共通する問題はあるといえるが、自分で発信するということを今一度考えてみてほしいところ。

 

 

 

成功者はリスクを背負っているとはいうものの

とにかく近頃言われている、成功者を僻んでいる人はそのひとたちがリスクを背負って挑戦していることから目を背けているということ。

 

昔から何かを成し遂げてきた偉人の話、特に戦後からの復興や高度経済成長期を成し遂げてきた事業家は、美談となって素晴らしい国日本とそこで働く者たちの心の支えになっていた。

バブル経済の崩壊後にはそれまでの経済活動の行き詰まりから、色々な規制緩和やアイディアによる事業を起こすことによる成功者が出現、こういったことからの歪みへの不満を言うものたちへの批判として、こういった文言をよく言う人たちが目立っている。

この高度経済成長期を支えた成功者は頑張って働こうと思う心の支えにしていくような話になっていった。努力は報われるという。

しかしながら、近年のリーマンショックなどを経た何をやってもむだという閉塞感の中ではその意味も変わってくる。挑戦しても無駄だというムードが漂う中において成功を掴んだものはすごいということに。その成功者が成し遂げて世の中にもたらしたこよりも、この厳しいゲームを勝ち抜いたことに評価がおかれたということになる。かつての成功者はエライという価値観だけを残して。

 

こういった閉塞感の中でゲームを勝ち抜いたのもにあこがれを抱くということは、少し戻り小泉改革の頃の時代になるがホリモンフィーバーで顕著になったといえる。新興企業のライブドアが富を独占しているように見えている大手とマネーゲームで渡り合う姿が既得権益を崩しにかかっているように見えたのだ。それは小泉改革で数々の改革を行い既得権益に切り込んでいっている姿に共感を覚えた若者は多い。

こういった空気はそのままに残り、既得権益との闘いはおいて行かれて成功者はリスクを背負い勝ち抜いてエライという空気を作り出した。

 

結局のところ、社会にもたらしたものよりもギャンブルに勝ったものが偉いという価値観が占めている。しかし、実際のところ考えてほしいが、そもそもの成功者はリスクを背負い勝ち抜いたから、なにも戦わない我々は批判してはいけないということなのだろうか。

 

リスクを背負い事業をすることで何を失うのか。それは別に命とか家族とかではない。まあ遠まわしに失うかもしれないけど。制度としてあるわけではない。

失うとしたら、自分の商売をするうえでの地位と、金、あとは融資してもらえる可能性、とか金を借りた親戚やお友達への顔向けか。

商売をするうえでの地位や信頼なんて普通の労働者にはないようなものだし、金なんて普通に働いていても金使いが荒い人は無かったりする。融資してもらえなくなることだって、普通の労働者はありうる。親戚や友達に借りる金に関してはそんなのでリスク背負ってるといってもと。

日本における挑戦というのはいわばギャンブルであり、リスクを背負うというのはいわばギャンブルをまたできなくなるということだ。それはもはや普通の労働をする人にはそれと同じ状況になるだけと考えると、あまりリスクを背負ってるとは思えないし、時間をかけていたとしてもそれは好きでやることなんだから。

その挑戦が失敗したとして、そのツケを社会でしりぬぐいをすることだってある。結局そういったことになってしまった人たちは敬われないが、そうならなかった人たちはみんなに迷惑をかけなかったらスゴイということになる。だが、間違えれば前者のようになることだってありえたのだ。

 

やはりセーフティネットなどの制度化のある日本においてはそのリスクを背負っているということはやはりそんなに偉いということには私は考えにくい。そういったことから、社会に負の影響をもたらす経済活動に成功者への嫉妬はみっともないと切り捨てるのは疑問を覚えざるを得ない。成功者への信仰は世相を反映しているところもあり、普遍の価値観ではない。それが嫉妬はみっともないという割と昔からある価値観に錯覚してしまうのだ。

日本におけるリスクと成功者信仰というものをいまいちど考えて適切な批判的精神を持ってみたらいかがかと提案したい。

 

 

交通弱者様

車とか運転できない人ではなく、道路交通における、です。

 

先日のエントリー 自転車乗りが歩行者に物申したらにおいて、この発言者は歩行者は確かに交通弱者かもしれないが、歩行者も安全対策をしていなかったら痛い目にあうのはそっちだぞ?ということを書いてあった。とんでもない狂った自転車乗りに出くわすことだってある。ということで。

そして、関連して 

 
道交法と運転してる認識の差異について(例の自転車の車載カメラ映像を見て) を書いてて思ったが、この自転車の走行のことについて「たしかに交通ルールを守っているかもしれないが、車道を走ってて痛い目にあうのはそっちだぞ?」といった声が目立つ。
 
みんな結構忘れているかもしれないが、衝突したら痛い目を見る方だから交通弱者なのである。痛い目にあうのはそっちだと思ってるように、歩行者だって自転車だって跳ねたりひいたりしたら車の運転手の人生に大きな影響がでるだろうし、痛い目にあうのはそっちだからこちらの安全に最大限配慮をしていると考えている。
 
暴走車両がいたりしたら痛い目にあうのはそっちという声があったが、同様に当たり屋なんてでてきたら人生棒に振るのはそっちともいえる。この場合の最適解はやはり痛い目にあうのはそっちという前に互いに暴走車や当たり屋の遭遇くらい考えて運転、歩行の安全対策(反射板とか)とかしているのがいいんでしょうが。
 
というのも、ツールドフランス7連覇(そのあとドーピング発覚)のランスアームストロングの自伝で、自転車競技のトレーニングで何度車にはねられたかわからないとか書いててもはや自転車乗りは車にはねられる運命にあるみたいなことまで書いてるのを見たので。
はねられる気マンマンじゃん!という感じさえある。
こういうのを見ると自転車が走ってるのを見て何かあったら痛い目にあうのはそっちだぞと思うのもナンセンスで自転車をみかけたら移動式地雷とでも思ったほうがいい。お互いのために。
 
 

 

道交法と運転してる認識の差異について(例の自転車の車載カメラ映像を見て)

自転車用の車載カメラ、あるんですねー。というかバイクとかにあるもんだから当たり前と言えば当たり前か。

 

件の自転車が走ってるのを煽ったり、追い抜いて急ブレーキする動画を見て色々コメントを拝見してると、結構道路交通法とみんなの共通認識に結構差があるなというのは感じた。自分もだけど。

映像を見ると、まあど真ん中走ってる自転車みかけたらいやーだなーとは思いつつも、こんなこたあさすがに…といったところ。

色々意見を見てると、どっちが悪いかみたいな話で決着をつけたがるなみんなと思った。結論からいえば自転車が悪い派の根拠の「左に寄って走るな」の声には道路交通法にある

(左側寄り通行の例外) 第18条 車両(トロリーバスを除く。)は、車両通行帯の設けられた道路を通行する場合を除き、自動車及び原動機付自転車にあつては道路の左側に寄つて、 軽車両にあつては道路の左側端に寄つて、それぞれ当該道路を通行しなければならない。

 

(自転車の走行車線)第20条  車両は、車両通行帯の設けられた道路においては、道路の左側端から数えて一番目の車両通行帯を通行しなければならない。ただし、自動車(小型特殊自動車 及び道路標識等によつて指定された自動車を除く。)は、当該道路の左側部分(当該道路が一方通行となつているときは、当該道路)に三以上の車両通行帯が設 けられているときは、政令で定めるところにより、その速度に応じ、その最も右側の車両通行帯以外の車両通行帯を通行することができる。

という記述があるとおり、片側1車線の際は左に寄って走らなければならず、それが2車線以上になれば一番左の車線を走っていれば真ん中を走っても問題ないということになり件の車と過失相殺になるようなことはない。

加えて、自転車がその録画が始まる前に悪質なことをしたかもしれないという発言には交通弱者にあたる自転車がよっぽどのことしようが悪い根拠にはならない。

 

でも、ネット上では

「こんな性格の悪いようなことする自転車の方が悪い」

「自転車に出くわすとむかつく」

とか、といった声が目立ち何やら内部告発が日本の美徳に反するとかいう風潮で、正しいことをしていても支持を得にくいような現象に似ていなくもない。

 

加えて、自分も急いでるときにドカーンと車道をふさいでいる自転車のりの人に出くわしてもまあ何も思わなくもない。ネットのなかでは

「あいつら邪魔」といった声がすごくみかける。

この走行においては問題は明らかに車の方にあるようだけど、自分も割り切れない気持ちもあるしネットでは自転車が悪いという声が「共感」のもとに正義になっている感じである。

強い共感を得られるのは自転車悪い派、あとは何か分かったようなクチききたい俺みたいなのはとりあえず「どっちもどっち」っていうかな。

 

この話題を見てたら判例主義に偏りすぎた反省から取り入れられた裁判員制度を思いだした。裁判員の結論と裁判官下した判決の噛み合わないことが度々話題になっているが、条文を読んでからこういったネットの意見や自分が体験してみたことを思い出すと、なるほどこういうことかと勝手に納得してた。

 

 

サンダーボルト宙域にジャズは似合わなかった

「サンダーボルトにはやっぱフリージャズだ。」


「機動戦士ガンダム サンダーボルト」第1話PV(long ver.)

という予告編が最高にクールだなと期待が高まった、機動戦士ガンダムサンダーボルトアニメが全4話で終わった。

宇宙+ジャズ+ハードボイルドな世界観はスペースコブラカウボーイビバップにも通じると思った傑作。イオフレミングとダリルローレンツの死闘を彩る音楽も、モビルスーツ戦にはいままで使われてなかったジャズがドンピシャではまっていると感じる。疾走感と気を抜いたら死ぬ感じが、予定調和をよしとしないビバップのピリピリした感じに似ている。マイルスデイビスがそういえば、ジャズは格闘技だって言ってたか。

音楽を担当した菊地成孔は以前にはLUPIN the Third 峰不二子という女で、かつてはルパンといえば大野雄二という固定観念にもなりかけていた音楽の世界観をぶっ壊してくれたのも中な痛快。

で、このガンダムサンダーボルト、よくジャズが流れるがこの戦闘を印象づけるシーンではオールデイズ風というかなんとも野暮ったい昔のポップス風の音楽が流れる。そして、それが決着するときの音楽というものがなんとも印象深い。

ジャズという刹那的なものとして動画を彩る反面、感情的に動画を彩るにはザ・感動!というストリングなどの音楽よりも、昔のポップス風な音楽に仕立てるってのはいいかんじ。

そういえばサンダーボルトにはやっぱフリージャズだ!ってところ実際にフリージャズが流れてこなったな。

わからない人に説明するなら、あのビームサーベルキャトルミューティレーションされたところで流れたのがフリージャズです…。

 

 

人の不幸が飯の種の人

というか、人の不幸を発端にしたことで筆をとる私。

……

被災地には「邪魔」な存在でも、メディア抜きでは「救済」できない

結構話題になっていたので。本当にメディア抜きでなければ救済できないというのかという話はさておき、真に批判すべきは硬直化する日本の行政システムであると。

まあどっちも同じくらい批判されてる気もするが、行政は当事者っちゃ当事者だから批判しづらくて、いつものマスメディア批判がしっくりくるともいえる。このジャーナリストの方が正義感で報道に携わってるとしたら、確かに後ろ指さされるようなことがあったら我慢できないかもしれないが、正しいと思ってやってるのなら後ろ指さされようが、なんだろうが黙々とやってたら?

と。

ここで、戦場カメラマンの宮島茂樹を思い出す。不肖宮島の。

この人の本は中々へーってことが書いてあるし、氏の職業観はなかなかすごいなと。

氏の職業観としては、割とよくないことが起こってると同写真を撮るかということを考えてる感じで非情にも感じる。が、人の不幸で飯を食ってるということを自覚しなきゃいけないということをも言ってるのであり、道徳観をもってはいるが正義感という言葉はあてはまらない。

報道写真を撮るということが社会にどう役立つかよりも、必要とされることを淡々とこなしていくからこそ賞賛をされる写真がとれるんだろうなと。撮ったあとの写真はそれを受け取った人たちがどう役立てるか考えた方がいいわけで。

 

この人の出世作の、麻原の留置所での写真だってそれ見てどう役立つの?というとかあるけど。余談だけど、この人いうには政治家は便所の中しかプライベートはない、芸能人にはプライベートなんてない!と言ってて、芸能人の不倫とかプライベートなことにはあまり…という声が霞む。

 

この人は非情さを感じるけど、ちゃんと(その人なりの)道徳観を持ってるとなと思うし、売れる写真を淡々と撮ってるわけだ。

叩かれても必要だと思われることをしてるっていうだったら、続ければいいような気もするが、マスコミ業界でヘリを飛ばすのを自粛したりという動きがあるのをこの記事の方は危惧していると。

本当に災害時に必要な働きをマスコミがするのなら、我先にと派手な絵を撮ることに終始するのではなく、ガイドラインでも作って業界でまとまって批判のないよう動いたらという気もする。

それこそ、災害発生で我先にと動くことしか能がないようなら硬直してると言わざるをえないのでは。