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cafe dé nanntoka

1に酒、2に音楽、3にアニメ、3、4がなくてあと余談

発達障害や人格障害を持つ人は弱者なのか

発達障害人格障害をいっしょくたに語るのはちょっと乱暴だけど、その言葉の使い方について記す感じなので問題ないかなと思うと前置き。

発達障害人格障害を持つ人は弱者なのかということはまず、簡単に言ってしまえば保護すべき弱者ではない。なぜなら精神障害の場合とは違い責任能力があるからだ。

とはいうものの、最近の自分のまわりやネット上での会話を垣間見るに、それらの障害という言葉を使っている光景に違和感を持つことが多いのでちょっと書いてみる。

とても多く見られるのは

・ダメなやつの烙印に

自己愛性パーソナリティ障害に多いが、身勝手にふるまう者に対して、こういうやつがみんなの周りにもいるんだという共通の敵を見つけて共感するということ。そして、その対象に対する敵意を改めて持つ。などということをしている。

もしくは、ADHDだなあいつは。だからダメなんだ。ということ。

 

・できないことの言い訳に

発達障害とかそういうことだから自分には無理なんだと諦めの言い訳に自分でするようなことをぼやいている人なんかがそんなところだろうか。もちろん、そういったことを他人へのいいわけに持ち出すと、甘えんじゃないよと辛辣な言葉が返ってくることが多い。

 

では、これらの発達障害人格障害は劣等人種を見つけ出すため、もしくは自覚させ、社会から排除すべき指標を示したということなのか。それは違う。あくまで人間と関係を築いたりなにかをするうえで多少の不都合が出てくる場合もあるが、能力はなんら変わりないことが多い。

ではなぜそういった言葉が精神医学などで出てきたか。これらの精神障害とまではいかないながらも、社会生活をしていくうえで問題がでてくる人たちは精神疾患などになるリスクが高いという点があげられている。こういったことを自身もしくはその属する集団で把握していればそういったリスクが減らせるということだ。

障害ということば用いることは、対処すべき問題であると認識し、前向きに向き合うことが求められるのだ。排除すべきであるということでも、言い訳にして行動をやめることでもない。ただ、無理はできない。

筋力の有無であるといったことで作業を分担することはあるが、それのようにその人たちごとの個性としてふるまい方をその集団で考えることが求められるのだ。ただ、あまりにも適正から外れる場合はその任から外れてもらう場合もあろう。しかしながら、そういった障害という言葉使う以上はギリギリまで向き合うことが求められるのではないか。

今の日本の社会はそれぞれで役割をもってもらって、それぞれで頑張ってもらうということで社会全体の富が増すようになっている。一億総活躍なんてもうみんな忘れているかもしれないが。対処すべき配慮すべきという意味合いで使われた言葉なんだからそれを発する人がみんな自覚したらちょっとは息苦しさもなくなるのかなって。

JASRACのどの点を非難すべきか

玉井克哉 JASRAC などと検索していただければ、音楽教室を対象としたJASRAC著作権料徴収をする方針にした経緯や、関係者のツイートとそれを巡るネットの声なんかがわんさか出てくるのでご覧いただければ。

 

・この件を機に、JASRACの何が非難されているのか

この問題においては、現行の著作権法において、楽曲の練習や指導が著作権法の対象とする演奏にあたるのかという点にある。法律が決まっている以上、JASRACの意向によって適用できるというようなものではないかということだ。

 

・関係ないといえることなのに持ち出される批判

1.アーティストへの配分が不透明

これに関しては、会員こと著作権者がそれぞれで契約して配分に関する事項なので、それ以外の者が騒ぐことではない。配分が不透明だから払いたくないという気持ちも分からなくもないが、やはり別問題だしJASRAC側も「配分はちゃんとしてるし、あなたたちはアーティストにお金を払いたくないんですか?」という反論もおかしい。あくまで著作権法の適用の問題。

 

2.小さいものをいじめてるとか、大きいものにはすり寄るのかといった批判

たしかに、かつてはジャズ喫茶などの訴訟をはじめとして、まずどこかに訴訟を起こして見せしめにして、その後一斉にいろいろな店舗にJASRAC加入の知らせを送ったという件があった。

また、インターネット上での違法アップロードに対しても、あくまで著作権料の徴収がしごとだからと重い腰を動かしてはくれないという話もあった。

そういったやり方が、法律というものは一律に適用すべきということから外れている。

それに対して、今回の音楽教室はヤマハなど大手が最大の徴収元であるから弱いものいじめではないという反論が件の理事の方から出ている。

これも問題とされている点ではあるが、やはり今回の件は著作権法の適用の問題であるので関係はない。

 

著作権法JASRACのさじ加減で適用されているのではないかという批判が本質である。

 

東日本大地震や、熊本地震において被災地の著作権料の徴収をしないという方針を上げた(3か月)。被災地に配慮するのは素晴らしいことだと思うが、それは個々の権利者が決めることなのは確かだ。おそらく契約時にこういうことをすることもあるといった特筆事項はっただろうが。

その逆で、会員が著作権料を徴収しなくてもいいという件を個別に対応してほしいということはできないのだ。

著作権を管理するということを目的とする団体は、必要ではあると考えるしその報酬や配分といったものは会員などの関係者で決めるべきではある。もっとも、JASRACが公益団体ではあるので、そうでないものもそのあり方を論じる資格はあると思う。

だが、不透明な団体だから払いたくないというのは、実際に我々がサービスを使用する楽曲の著作権者が委託した団体なのだから仕方がない。

そういった問題は常日頃してもいいと思うが、今回の件の反論としては著作権法の適用という点であろう。

 

出し抜かれることにおびえながらも、なぜ労働基準法を守らなければいけないか

松浦勝人氏の労働基準法観について是正しておきたい点

において言ってたことをまた再び蒸し返すような話なんだけど。今日は旅行会社大手のHISが度重なる労働基準監督署の業務改善命令を受けながらも是正の態度が見られなかったために書類送検されたという。

また、話はちょっと変わるがセブンイレブンでは懲罰により高校生のアルバイトの給料が減額されたという。この話でテレビはよく法定の基準である一日当たりの給与の10分の1をこえる減額であったということを言っているが、そもそも欠勤である。その分の給料は発生しない。それに加えて給料を減額したということだ。こういったことだとセブンイレブンは懲罰目的で給与の減額をしたととられかねないが、そもそもこういった減額が許されるのは過失か故意により損害をもたらしたときだ。

ともあれ、こういったニュースが流れてくることで、労働への世間の関心がもたれているのかなと思わずにはいられない昨今である。

しかし、こういったなかでちらほらと聞こえてくるのは「労働基準法なんて守ってたらほかのところに出し抜かれる」「そんな甘いこといってたら負ける」こういった声だ。

 

ではなぜ労働基準法は守らなければいけないのか

たとえば、日本の高度経済成長期は華やかな記憶として日本人にはあのころはよかったよねとなんとなく体験してない自分でも想像できてしまうのであはあるが、その影で産業廃棄物やら有害物質をどんどん環境に放出し公害問題を引き起こした。

そういったことを引き起こさないように、法律で規制されている。労働基準法とは適用の厳格さが違うが、もしそれがゆるやかな適用だったら「そんな環境のことを気にしてたら負ける」そういった声があったかもしれない。また、食べ物の中に含まれる有害物質だって規制されているが、そんなことを気にせずに生産性を重視したら、社会的に問題になる。

これは労働基準法の適用でも同じことだ。みなが無理をしながら働くことは決して社会のためにはならないのだ。そして、公害問題しかり、そういった社会的損失をふせぐためにみんなで守らなきゃいけないルールなのだ。

なお、中国なんかは公害問題を気にせずにどんどん産業を発展させているため、他の国を上回る生産性を上げているが、やはりいつか問題に直面し様々な点を見直しをせざるを得ないと思う。こういった問題に直面すると見直しをし立ちどまるということを、昨今の労働関係のニュースなどを見ていると期待したいところだが。

 

君主論と日本の政権交代とか野党の迷走とか

日本も55年体制の崩壊や、鳩山政権の誕生などいろいろなことを経てまた安倍晋三総理の率いる自民公明連立政権が過去最高の支持率を得たところでしばらくこの状態が続くのかなと思う次第。

そういえば、昨年の参議院選挙においては与党が大勝しその体制を盤石なものにしたわけだが、党首の方々がNHKの番組において討論をしていたのをふと思い出した。民進党の初代代表の岡田代表が、安倍総理のたしか実質賃金が何期連続だったか上がり続けているという主張に対し、それに対しては様々な議論があるという程度にとどめた発言をしていたが、じつのところはその何期連続と切り出したところは確かに上がっているが、その前にはがくんと下がっているのにとそのときは思った。

岡田氏もまあそこら辺はわかっているのかと思うが、あまりにもつつきすぎると自分たちが万が一政権を取った時につつかれかねないような懸念でもあるのか。

 

日本の経済関係はよく為替レートなんかに振り回されているのでは

そういえば、結局のところ経済関係や景気対策にいろいろな政策を打ったところで、国際的な相場や株価なんかでその努力は水泡に帰してしまったりといったことなんかが多かったりする。

そんなことをやはり選挙の公約の目玉にもってくるのってやはり難しいのかなと想像する。

 

マキャベリ君主論を思い出してみる

マキャベリ君主論は統治の方法論をまとめた書であるが、統治というものでも政治にあてはまるところが多いのではないかと。マキャベリは元にいた君主を追い出して、新しい君主が入ってきたとき、その君主は前の君主を追い出し、その君主がしていたような統治体制をすれば良いと説いた。民草は結局のところその暮らしが変わらなければ誰でもよいのである。

今の日本経済に対する景気対策というのも、国民が政権に期待することとして常に大きいパーセンテージをほこるものであり、現代におけるまさに統治行為の中核といっていいだろう。もともと効率よくやっていたことの踏襲である。

 

しかし、差別化は必要

そんなことなら、今の民主主義に野党というものはいらないわけだが、もちろん様々な利益の調整や思想的な違いなんかもあるのでまたそれは別の話なんだけど。そして、現代の統治行為たる景気対策なんかは踏襲するとして、政権を奪取するための闘争といえるようなものとしてその他の政策の差別化ということになるんではないだろうか。

それは外交で差をつけるといったことや、これは政策とはなんの関係もないけど漢字テスト(爆)をやってみたりして政権の資質を問うとかそういったことなんだろう。

 

国民が期待するのは景気対策という声が大きいからこそ

景気対策を期待する声が大きいからこそ、堅実に以前の踏襲になりがちになってしまうのであり、それ以外のところで勝負せざるをえない野党が迷走しているように映ってしまうのではないだろうか。色々手を打ったところで世界の様々な情勢でパーになるんだろもの。

やはり、こういったことを思うと政治への無関心が加速してしまうようにも思えなくもない。もちろん、各議員や大臣が担当したときの様々な政策の違いなんかはいろいろ見えてくるんだけどそういったものはやっぱり見ていきたいなと。

 

配偶者を嫁とか書いたりする風習

そういえば、SNSをするまでまったく意識することがなかったけど女性の配偶者を嫁と書いたりする風習がある。これはそもそも関西のほうの習慣だったようではあるが、インターネット上で主に使われるようになったのはおそらく「長門俺の嫁」に始まる俺の嫁といったネトスラングからではないだろうか。

本来なら嫁は姑などから見た、つまりは家に嫁入りした者に対して使うのが一般的である。一般的であったはずである。だが、そうでもないようだ。ネット上では。

嫁さんとか嫁ちゃんなんて書いたりするのもいる。

 

嫁という呼称がもたらす印象

嫁は日本の近年は堅苦しいとされる家制度の象徴的な呼び方であるといえるのだが、それをこうもよくつかわれるようになり、使用している当人たちはさぞ厳格なものかといえばそんなものではない。

結婚してもインターネット上で楽しくツイートしたりインスタグラムに写真をあげていたりするような感じで、結婚する前と後でも印象がかわるものでもない。自分の観測している範囲では。

では、どういった印象になっているのか、それは先ほど述べたネットスラングの「俺の嫁」以降にうける好きであるという気持ちが出てるような使い方であるといえる。この嫁という言葉がすでに薄れつつある家制度を象徴するような呼称であるが故に、気軽に現実感のない言葉として今の20~30代くらいの者に使われているのではないかと考えている。

 

なぜ嫁という呼称が使われているのか

嫁という呼称は正確ではないということを書いたが、よく見かける奥さん旦那さんとSNSで配偶者の話を出す際にも使われるのをみかける。これも日本語としては間違っている。これらは他人からみた話し相手の配偶者を指す言葉である。嫁でも奥さんでも旦那さんでもなく、妻もしくは夫である。しかしながら、よく使われる理由は明快で、自分もそういう日本語を使う知人に話してみると

「だって夫とか妻とかいうと本当に結婚してるみたいじゃん」

と、

「いや、あなたち本当に結婚しているでしょ!?」

とまあ即座にツッコむわけではあるが、まあこれはうちの妻がなんていう感じ話を始めると、非常に堅苦しい印象をうけてしまうということがある。たしかにこういう表現、法律の話のときによく出てくる気がするんだもんな。

 

嫁ということばが使われる背景

こういう言葉遣いが使われる背景としては、堅苦しい夫婦という家制度を構成するユニットのひとつになりたくない、SNSでも気軽に発信していきたいような気持ちがあるのではないかと思う。夫婦というものがライトな感覚になっているのではないかと。家制度の要素の強い言葉でありながら、その家制度が実感しづらいものになっており、それでこそ現実離れした言葉として嫁という言葉が使われるというわけだ。

そして、この嫁や奥さん、旦那さんという言葉は三者から使われるわけで、それこそ他人事のような印象をうけることばだ。

しかし、昨今のSNSは現象を観察して第三者のようなツイートをすることが多い。あえてこういった表現で身近なことをアウトプットしやすくなるということはある。家制度が感覚としては薄れているが、結婚生活に何か息苦しさを抱えながら暮らす人は多い。こういったなかだからこそ、第三者という立場のような言葉を使うことで結婚しても社会とつながり続けたいという意識があるのではないかとわたしは考える。

 

 

ユーリ!!!とユーフォを比較してみて ~あえて目標達成しない~

2016秋アニメ、ユーリ!!! on Iceと響け!ユーフォニアム2が個人的に印象に残った。ユーリはフィギュアスケート、ユーフォは吹奏楽とどちらもアニメの題材としては異色だ。

たまたまそのふたつが同じ時期にやっていたというだけで、特に比べる必要もないとは思う反面、いろいろと思うところもあり…というわけで。

さて、ユーリはすごく女性の方の人気がすさまじい作品ではあったけど、男が見てもしっかりと作りこまれたアニメだからとても引き込まれる。ユーリはスポーツをとりあえずは扱っているものの、決してスポ根(スポーツとか根性とか)の類ではない。フィギュアスケートの表現を感情というものを軸に扱っているという印象をうける。スケートの練習をする場面は多々見られるが、それ自体はとくに重きをおいてはいない。スポーツをするうえで、その選手に足りないものがわかる→それを克服すべく練習→ときには励ましあい、といったようなものではなく、フィギュアスケートをめぐる人間の絆がどう物語とスケートの表現を作り上げるかを見るものだといえよう。

一方、ユーフォのほうも全国大会という目標を掲げ一丸となって吹奏楽に取り組む小説とそれを原作にしたアニメだ。私は小説は読んでないけど。部活で常に練習に取り組むが、吹奏楽という表現行為をするものである。そして、部員はみな練習をする描写はあるが、それぞれのファクターで表現行為を完成させるのはこちらも人間関係をめぐる話が決着したらということであった。

どちらの作品もグランプリファイナル金メダルも、全国大会金賞もとれないで終わるが、ガッカリという感情は残らない。ユーリのほうは、1話で世界の舞台にはあがれたものの、世界では誰にも気にも止められずふさぎこんでる勇利ではあったが、ユリオが勇利のことをヴィクトルよりも先に認めていたという事実がわかる。滑走の順番で最後になったわけで、物語のクライマックスの勇利が歴代最高得点を出す場面のほかに、この部分がもうひとつのクライマックスといえるだろう。誰にも見てもらえてないなんてことはないということがこの作品を通したメッセージともいえるのではないだろうか。そして、金メダルをとれないことで何が残るかというものをこの作品は物語っている。

そして、響け!ユーフォニアムも、いろいろな人間関係を解決しそのたびに表現が豊かになっていくが、そんな成長しきったともいえる状態ながら全国大会は銅賞という結果にすることで、最後の飛鳥と久美子の物語をクライマックスにしたといえる。

どちらも、目指していた場所とは少し違う結果になるということで、最後にそれまでを通じたものを考えさせる構造はまさに、画竜点睛を欠くの完成させないほうが良いという用法のほうであるといえるのではないか。

コンクールや競技は誰にも負けていないものは一人しかいない。そういったものをたたえるドラマというものよりも、目的を達成できなかったときに何が残るか。それをやっていることの楽しさとそれをとりまく人間の絆というものを表現していたというこのアニメ。人類の存亡をかけてたら負けたらまずいよということになるわけだけど、そうではないし、みんなが共感というか、ぐっときてるこの良作がある背景には夢中になって力を出し切ることや、切磋琢磨したいとい、夢中になりたいという願望があるんじゃないかなと(ユーリの腐的あれはのぞく)。

松浦勝人氏の労働基準法観について是正しておきたい点

労働基準法 是正勧告とは|松浦勝人オフィシャルブログ「仕事は仕事で遊びは遊び」Powered by Ameba

において、AVEXの松浦氏が好きでやってる仕事の人にまで労働基準法を押し付けるなと憤慨している。知り合いの使用者側でもこういうこと思ってる人結構いるので、ちょっと書いておきたい点などをば。

最近、そこそこ知名度のある企業の方々残業させないで帰すようにしたら生産性があがった!という記事やツイートを目にするので、好きだからって帰さないでやらせ続けたら会社の損失になるんじゃないんですか。

と、そういったことは自分も眉唾だと思ってるし、かかる社会保険料とかあることだしできるだけ一人当たりを長時間働かせ続けたほうが会社は儲かるんじゃないかなと思う。が、法律は許さないんだけど。

氏の発言としてはやはりなんでウチだけたたかれるんだって気持ちが強いんじゃないかな。

まあ他もやってるのに!思うところも大きい。なんであの車もスピード違反したのにってキレるみたいな。見せしめで大きいところをつるし上げて、他のところにお前らも守れよってやるやり方、前にジャスラックがやってたみたいで好きではないかな。

効果はあるんだろうし、企業が大きくなるとそれなりに公正な組織であることを求められるんだろうけど、それを差し引いても企業競争の不平等になる。

この平等と不平等ってところが、指摘しておきたいところ。

で、松浦氏のいう労働基準法、これは時代に合わせて幾度となく改正をしているのでいつまでも時代遅れなものでもない。これが経済界の要請というか圧力みたいなもので変えられるという面は否めないが。

労働基準法は労働者を保護するためという側面が強い。だから氏のいう嫌で長時間労働をさせられる人を保護しなければいけないというものが主な目的ではある。

だが、それとは別にあらゆる企業が平等に競争をするためのルールでもあるのだ。一方の企業が仕事が好きでやってる人だけで、もう一方が長時間労働はしたくないという企業。好きでやってる側はどんどん労働時間を増やしていけば、競争する長時間労働はしたくない企業のほうは淘汰されてしまう。いやならやめればいいというものではない。生活かかってるし。

だいいち、好きで仕事やってるか?と上から聞かれた「はい!すきです!」って言わざるを得ないでしょと。松浦氏は是正勧告を受けたのを自身の社員の内部告発である可能性を微塵も考えてないのだろうか。

しかし、かといって好きな仕事を好きなだけできる方法を完全に奪ってしまうのは酷である。でも、好きな仕事を好きなだけできる方法があります!

なんと!自分が経営者なら労働基準法は適用されませーん!

または、取締役といったような役職になるとか。

労働基準法は労働者保護と、それを徹底するための競争の平等をセットでしなければ出し抜かれてしまう。そういったものであり、それを適用しない立場はかなり独自の判断と責任で動く立場でなけれならないのだ。もちろん「みなし」は論外。

好きな仕事を好きなだけやりたい人にはこういったポストを与えれば、労働基準法に関係なく好きな仕事を好きなだけさせてあげられますよ、松浦さん。

 

みんながみんな好きな仕事にしかついてない人がいるなら、この主張も通るんだけどねー。

 

しかし、AVEXは社員向けの病院とかケア施設があるってのは驚いたなー。